扉を開けた途端、目の前に明るい金色を見て取り、思わず仰け反った。

朝の身支度を整え、未だ夢と現の間を彷徨う頭に如何にかこうにか仕事の二文字を刻みつけながら廊下に続く自室の扉を開いたのだが、これには驚いた。

 

相手も相手でまさか開けようとしていた扉がタイミング良く開くと思っていなかったのか、びくんと肩を跳ね上げている。

 

 

 

「ひぁッ!?」

 

 

 

可笑しな声をあげ、ちっこい頭がこちらを見上げるのがわかった。

恐らくノックしようとしていたのであろう、小さな拳がそのままの状態で停止している。

 

とすんと足元に何かが落ちる音が響いた。

 

 

 

「ら、ラビ……?」

 

 

 

朝一番に俺の部屋の前で一体何をしているのだろうと訝しみながら、ばくばく跳ねる心臓を抑え込んで言った。

 

 

 

「おい、……驚かせんなよ。何だってこんな朝早くに」

 

 

「ごっ、ごごごごめんなさい」

 

 

 

見る間に赤面して謝り倒す彼女を見下ろし、続いて廊下……もっと言えば俺の足元に落ちた何かに手を伸ばした。

 

それは、小さな小箱だった。

こっくりとした焦げ茶色の小箱に白と赤のリボンが可愛らしく結ばれている。

 

拾い上げ、少女の手にぽんと乗せてやった。

 

 

 

「落としたぞ、これ」

 

 

「あっ、ありがとうございます……」

 

 

 

条件反射か、呆けたように俺の行動を眺めていた相手はそんなことを言った。

 

が、その脇を通り抜けてそのままエレベーターホールへ向かおうとする俺に、慌てたようにこんなことを叫ぶのだ。

 

 

 

「いえッ、そうじゃなくて! あの、イーヴィルさん!?」

 

 

 

朝から元気な奴だなと思いながら振り返ると、こちらにとたとたと駆けてくるチビ兎が見える。

 

俺の前で停止するそいつに首を傾げ、尋ねた。

 

 

 

「如何した?」

 

 

「あ、の」

 

 

 

ラビエールは、何とも気不味そうに上目でこちらを窺った。

……果たしてこいつに自覚はあるのだろうか、そのような目で見上げられると男としてつらいものがあるのだが……うずうずと湧く加虐心に蓋をして、溜め息混じりに言った。

 

 

 

「何だ、ラビエール。用があるなら早く言え。遅刻したら俺共々、麻桐に叱られるぞ?」

 

 

 

びくりと肩を跳ね上げ、彼女はわたわたと腕時計を検めて愕然とした。

 

 

 

「えっ? あっ、もうそんな時間ですか!?」

 

 

 

やれやれ。

 

生真面目な少女に再度溜め息をくれてやり、身を屈めて彼女の目を覗き込んだ。

 

 

 

「わざわざこんな早くに俺の部屋を訪ねるような用事なんだろう。……ほら、早く言えっての」

 

 

 

出社までの時間は充分にある。

大体において、俺は兎も角、ちょっとやそっとの遅刻くらいで麻桐が彼女を咎めることなど有り得ない。

 

俺にはもう、この少女の用事とやらがよくわかっていた。

そして、この如何しようもなく引っ込み思案な少女がその用事を口にするには、何かしらの後押しが必要だと言うことも。

 

じっと凝視する先、ラビエールの頬がみるみる赤くなっていくのが窺えた。

 

少女は言う。

 

 

 

「あの、……其処まで緊急性のある用事ではないのですが」

 

 

「そうか?」

 

 

 

じりじりと相手が後退りする分だけ俺が一歩二歩と近づくので、距離が全然変わらない。

 

胸の前で小箱を抱く少女は、上擦った声で言った。

 

 

 

「ほんとにほんとーに、お時間を取らせるような用事ではないのですが……!」

 

 

 

とんと廊下の壁に彼女の背がつくのを見て取り、ゆっくりと鼠を追い詰める猫のように、壁に手を這わせ首を傾げる。

 

 

 

「別に構わないぜ? 俺に用事なんだろう……どんな用だ? 教えてくれよ、ラビエール」

 

 

 

最後には相手の耳元で低く囁けば、降参したか彼女は叫ぶようにこう言った。

 

 

 

「渡したいものがありまして!」

 

 

 

あっさりと身を離して次の言葉を待つと、彼女は真っ赤な顔で、先程の可愛らしい小箱をこちらに差し出してきた。

 

 

 

「……今日、あの、……あの、バレンタイン……なので」

 

 

 

緊張したようにふるふる震えるそれをひょいと受け取りながら、肩を竦めた。

 

 

 

「知ってる」

 

 

 

一連の挙動不審な行動と、今月のカレンダーを照らし合わせれば、その答えなど一目瞭然である。

 

始めから彼女の反応を見るために空っ惚けていたことがばれてしまったか、彼女はぷくりと頬を膨らませて呟いた。

 

 

 

「意地悪」

 

 

「おいおい、俺が意地悪なことを知らなかったのか、ラビエール。今更だな」

 

 

 

涼しい顔で、ふんと鼻を鳴らして口角を上げると、相手はむううと子供のようにむくれるのである。

 

取り繕うように小箱を示し、尋ねた。

 

 

 

「開けても?」

 

 

 

少女はきょとんと目を丸くした後、こっくりと頷いた。

その目の奥に緊張を見て取り、そっと彼女の目の前でリボンを……。

 

 

ポケットの奥でバイブレーション音が鳴り響いた。

 

 

はたと見下ろせば、スーツのポケットから覗く可愛げのない業務用のポケコンが、点滅しながら一定の間隔で振動している。

 

表示される名前に顔を引き攣らせ、呟いた。

 

 

 

「やべ、麻桐……」

 

 

 

一体何を嗅ぎつけたのか、そもそも何故今日に限ってこうなのかと思うのだが、あの上司のことである。

今更文句を言っても仕方のないことだろう。

 

所在無き小箱を何処に仕舞おうか一瞬頭を悩ませると、目敏い彼女がそっと両手をこちらに差し伸べた。

 

 

 

「もしお急ぎのようでしたら、預かります」

 

 

「否、それは」

 

 

 

わざわざこちらへ寄越してくれたものを相手に返すのは如何なものなのだろうと躊躇うのだが、少女は気分を害した様子もなく、こう言うのである。

 

 

 

「今日のお仕事が終わったら、また改めて渡しに伺うというのは如何でしょうか? それなら、慌てて開ける必要もありませんし」

 

 

 

道理に叶った物言いに納得し、ぽんと小さい頭をひとつ撫でた。

 

 

 

「嗚呼、悪ィがそうしてくれ。……また後で」

 

 

 

言えば、少女ははにかみながらふにゃりと笑った。

 

 

 

「はい、また後で」

 

 

 

名残惜しい気持ちで手を離すと、明るく鳴り響く音がエレベーターの到着を告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ノックの音に我に返り、顔を上げた。

ちらと見遣る時計は、既に深まる夜を告げている。

 

癖なのか、数秒の後に同様の音が響いた。

 

今ではもう聞き慣れてしまったそれにソファから腰を浮かせ、ドアノブを捻って開けた。

 

今朝の光景を彷彿とさせるように、其処には明るい金色が揺れていた。

今朝と異なる点といえば、相手の表情だろう。

 

あの慌て様とは打って変わって、俺がこうして扉を開けることを予期していた彼女はごく当たり前のようにぺこんと頭を下げていた。

 

 

 

「お疲れ様です!」

 

 

「おまえも」

 

 

 

柄にもなくそわそわと時計を確認していた事実など到底口に出来ず、代わりに労いの言葉を投げれば、頭を上げた相手はにっこりした。

 

 

 

「来ちゃいました」

 

 

 

彼女の手には可愛らしい小箱。

渡し損なったそれを再度届けに来ると約束は成就したらしい。

 

わざわざこうして来てくれた理由が自分にあるということを自覚すると、何とも言えない温かさが胸に湧いた。

 

そっと扉をさらに開いてみせ、部屋を示して言った。

 

 

 

「入るか?」

 

 

 

手で促せば、素直な少女はそのまま俺についてきた。

 

差し出される小箱を受け取り、今朝の遣り取りをなぞるように尋ねた。

 

 

 

「開けても?」

 

 

 

ラビエールはそわそわとこちらの様子を窺いながら首肯した。

 

 

 

「はいっ、どうぞ!」

 

 

 

リボンを摘まんで解き、包装を取り払っていく手の動きを見守りながら、少女は俺の隣に腰を下ろした。

 

蓋を取ると、ふわりと甘い匂いが微かに香った。

中には品良く詰められたチョコレートと、短い感謝の文字を綴ったメッセージカード。

甘いものに疎い身であるが、その数少ないチョコレートがどのような価値を秘めているか、長年の経験からわかった。

 

 

 

「これ……探すの大変だったろう」

 

 

 

随分と背伸びをしたそれに素直に驚けば、少女は苦笑と共に言った。

 

 

 

「昨年、イーヴィルさんに素敵な逆チョコをいただいてしまったので、如何してもお返しをしたかったんです。……きらきらしたお店に入るの初めてで、凄く緊張しました」

 

 

 

恐らく昨年の俺と全く同じ思いをしたであろう彼女を眺めると、ふつふつと可笑しさが込み上げた。

 

 

 

「確かにあの店、入りづれぇよな」

 

 

「でもでも、どのお菓子もとっても可愛くて、選ぶの楽しかったですよう。どれを渡そうかな〜って、いっぱい悩んじゃいました」

 

 

 

ころころと表情を変え説明する少女を眺めながら、箱のひとつを摘まみ上げて口に含んだ。

よく知る甘ったるさを想像し身構えたものの、俺の予想はあっさりと外れた。

 

 

 

「珈琲、か」

 

 

 

呟くと、ラビエールはこっくりと頷いた。

 

 

 

「甘いものが好きじゃないって仰ってたので、甘さは控えめにしました」

 

 

 

黙々と咀嚼すると、珈琲と香ばしいナッツの味が喉を滑り落ちていった。

すうと引いていく香りと後味を楽しんだ後、隣の少女に言った。

 

 

 

「美味い」

 

 

 

ぱあっと少女の顔が輝いた。

先程までそわそわとこちらを窺っていた不安げな目線が嘘のようだった。

 

菓子を渡すだけで何も其処まで緊張することもなかろうにと思うのだが、斯く言う昨年の俺もきっとこいつと同じことをしていたのだから、笑えない話である。

 

ほっと胸を撫で下ろし、ラビエールは嬉々として言った。

 

 

 

「良かったです〜……嫌いなものを選んでしまったら如何しようかとずっと心配で」

 

 

「其処まで俺のこと把握してんなら、嫌いってのは有り得ないだろ」

 

 

 

溜め息をつけば、ラビエールは困ったように眉根を寄せて言った。

 

 

 

「おっ男の人にプレゼントを渡すのは、とってもとっても緊張するものなんです!」

 

 

 

ふと、俺の手元に目を遣った彼女は目を丸くし、慌てたように声を漏らした。

 

 

 

「あっ……」

 

 

 

きょとんと箱に目線を落とすと成程、彼女が慌てている理由がわかった。

恐らく何かの形を作っていたと思しき生チョコレートが、崩れていた。

 

今朝の出来事を思い出し、納得する。

 

 

 

「そういやあの時、落としてたな」

 

 

 

柔らかい生地のチョコレートである。

落下の衝撃に耐えられなかったのだろう。

 

俄かに相手がしゅんと肩を落とした。

 

 

 

「折角綺麗な形だったのに……ごめんなさい」

 

 

 

自身の失敗を思い出してか、少女は今にも泣き出しそうな顔をする。

 

そんな相手を一瞥、それを摘まみ上げて口に放り込んだ。

ぽかんとする相手を無視し、黙々と咀嚼した後、言う。

 

 

 

「複雑な味だな。外は生チョコレートだが、中にホワイトチョコレートと別の生地が入っている。さすが、ショコラティエが趣向を凝らした作品と言ったところか。この時期の各店舗の本気にはいつも驚かされる」

 

 

「……」

 

 

 

目をぱちくりと瞬く相手に肩を竦め、箱を示して言った。

 

 

 

「そんな顔するな。形が崩れたって、美味いものは美味い。それに、相手のことを色々考えて選んだものってのは、それだけで相手は喜ぶもんだぜ?」

 

 

「そ、そういうもんなんですか?」

 

 

 

俺の言葉をなぞる彼女にやれやれと首を振り、崩れてしまったもうひとつを摘み上げて少女の口に押し込んだ。

 

 

 

「んむっ!?!?」

 

 

 

急な行動に驚いたか、チビ兎がわたわたと手を動かして慌てるので、首を傾げて言った。

 

 

 

「ほら、美味いだろ?」

 

 

 

チョコレートを押し込んだついでに、それが彼女の口から落ちないよう指で舌をなぞってやると、少女は困った顔をした。

 

 

 

「イヴィひゃ……あむっ……これ、イヴィひゃんの、……っんく」

 

 

 

彼女がくぐもった声を漏らすたびに、指に舌が絡み、溶け出したチョコレートと口内の温かさを感じた。

口から伝い落ちそうなチョコレートを懸命に飲み込もうとする少女の表情に、ぞくぞくとした加虐心が頭をもたげた。

 

 

 

「そういや、俺が貰ったチョコレートだったな。忘れていた」

 

 

 

人差し指で悪戯に彼女の舌を苛めながら言えば、少女は息を乱しながら応じた。

 

 

 

「っん、……そうれす、イーヴィルさんの食べる分が減っちゃいまひゅ」

 

 

 

くちゅりと音を立てて彼女を解放してやると、指先を繋ぐ銀糸がぷつりと切れた。

 

そのまま桜色の唇をなぞり、囁いた。

 

 

 

「なら、返してもらおうかな」

 

 

「ふぇ!?」

 

 

 

間抜けな声を漏らす相手に自身の口を示して、優しげに言う。

 

 

 

「俺のチョコレートなんだろう……?」

 

 

 

言わんとすることを理解したか、見る見るうちに少女の頬に紅が差した。

その変化を意地悪く楽しみ、身を離してソファに座り直した。

 

頬を上気させる相手にしれっと言う。

 

 

 

「俺ばかりが夢中だなんて、ずるい」

 

 

 

少女がそろそろと近づいてきた。

 

おっかな吃驚……というか、羞恥に身を震わせながら、彼女はぎこちなく俺の前に立つ。

じっくりと眺める相手の顔は、林檎のように赤かった。

 

そのまま彼女は俺の脚の間に膝をつき、向かい合うように目線を合わせるのだが……。

 

 

 

「あの」

 

 

 

蚊の鳴くような声でラビエールが言った。

 

 

 

「何だ」

 

 

 

応じれば、相手はふらふらと目線を泳がせて言った。

 

 

 

「……目を閉じてくださると大変有り難いのですが」

 

 

「……」

 

 

 

わかりきった答えを知ってなお、何故だと問いたくなるものだが、これ以上苛めるのも可哀想に思い、素直に目を閉じた。

そもそも考えてもみれば、少女からこうして近づいてくることなどなかったのだから、新鮮なものである。

 

取り留めもないことを考えながら、そっと肩に触れる小さな手に意識を向けていると、柔い唇が俺の呼吸を飲み込むのがわかった。

 

そっと触れるだけのそれは、温かさを残してすぐに離れるから、相手の手首を捕らえて目を開けた。

予想に違わずごく近い距離で羞恥に目を潤ませる少女の姿を見て取り、理性の掛け金が音を立ててずれた。

 

 

 

「足りない」

 

 

 

指を絡めて要求すれば、少女はびくりと肩を跳ね上げる。

大きな薄青い瞳を下から覗き込み、囁いた。

 

 

 

「もっと欲しい」

 

 

「!」

 

 

 

身を強張らせたものの、彼女はおずおずと再びこちらに戻ってきた。

見つめる中、彼女は恥ずかしさを堪えるようにぎゅっと目を瞑り、慣れない行為を再開した。

 

触れ合う拙いそれは、躊躇うように離れ、また確かめるように重なる。

 

焦らされているような気持ちでキスを返すと、少女は甘い吐息を漏らした後、またキスを返してきた。

始めは触れ合うだけだったそれは徐々に深さを増して、俺達の吐息が部屋に飽和した。

 

一体何処で覚えたか、口内に侵入してくる少女の舌に反応し、抱き寄せながら甘えるように自身の舌を絡めた。

 

 

 

「っあ、ぅん……っん」

 

 

 

チョコレートの味と、微かに漏れる少女の喘ぎ声も相まって、痺れるような甘さが身体を支配した。

相手は無意識なのだろうが、角度を変えて舌を絡めるたび鼻に抜ける甘い声を漏らすのだから、世話はない。

 

甘い味を奪い尽くすように、舌で彼女の口内を犯していくと、微かに跳ねる小さな身体の下でソファの軋む音を聞いた。

 

 

 

「っは……甘さ控えめって言ってなかったか?」

 

 

 

触れ合ったままの唇を微かに離して囁けば、生理的に湧く涙で潤む瞳をこちらに向け、少女はぽつんと呟いた。

 

 

 

「……意地悪」

 

 

「俺が意地悪だってこと、少しはわかったか。でも、……優しくする。おまえにだけは」

 

 

 

言えば、少女はほんのりと笑って応じた。

 

 

 

「そんなところが、大好きです」

 

 

 

嗚呼、あんなに苦手な甘い菓子を平然と望んでしまう今日の俺は、きっと如何かしている。

チョコレートの所為だ。

全ては、チョコレートが甘過ぎるのが悪いのだ。

 

……そういうことにしておこう。

 

 

 

 

 

 

ビターラビットと甘い夢

 

(……もっと欲しい)

(もう……食べ過ぎは、身体に毒ですよう)