「出張……ですか?」
きょとんと相手の言葉を反復すると、先程からものをスーツケースに放り込んでいる男の人が応じた。
「そう。本当は一週間後のはずだったんだが、今日の午後からになった」
普段と何ら変わりのない表情ではあったものの、ばたばたと慌ただしく部屋の中を動き回る彼の様子は、その通告が急であったことを示している。
手伝うことが見つからず手持ち無沙汰の状態で立ち尽くす私は、彼の動きを目で追いながら尋ねた。
「どれくらいかかるんですか?」
その声は、予想以上にか細かった。
不安を気取ったか、不思議そうにスーツケースから目線を上げたイーヴィルさんは作業の手を止め、ゆっくりと立ち上がった。
見上げる先の彼は言う。
「大体三週間ってとこだな。向こうの仕事量にもよるが、恐らくそれくらいかかるだろう」
三週間、とすると、最低でも三月の第二週まで彼はこの会社を空けることとなる。
つまりは、次に彼の顔を見るのもそれ以降となるわけだ。
「そうですか……」
予期せぬことに肩を落としたものの、こちらを見下ろす怪訝そうな紅眼にはたと我に返り、慌てて両手を振った。
「た、大変ですね! お気をつけて!」
寂しいだなんて告げられるはずもなく、そもそも仕事の支障になるだろうと、無理矢理笑顔を引っ張り出して言えば、彼はしばしこちらを眺めた後、ぱたんとスーツケースを閉じた。
「出先だし、会社のポケコンくらいしか持たねぇから、連絡もできなくなるが……まぁ、たかだか三週間だ。良い子にしてろ」
おざなりに私の金髪をくしゃりとかき混ぜ、彼は少ない荷物を片手に出て行く。
その背中が見えなくなった途端に笑顔が剥がれ落ちる辺り、自分の落胆の大きさが窺える。
くしゃくしゃになった頭に両手を遣りながら、呟いた。
「たかだか三週間、って……」
彼はそう言うけれど……されど三週間である。
嗚呼、彼にとって三週間なんて大した問題ではないのだろう。
(寂しいって思うのは、私だけなのかな)
彼のいない明日の会社を思い浮かべると、何故だか胃の辺りがすっと冷えるような、落ち着かない気持ちになった。
溜め息をついたものの、だから如何というわけでもなく、また如何することもできないことだと独り納得する。
いつまで経っても来ない私を呼ぶ声に跳び上がり、私は慌てて廊下に向かって駆け出した。
*
此処、Requiem本社に滞在するようになってから、随分と時間が経った。
最初はあんなにもつっけんどんだった彼の態度が全然怖くなくなったのはいつからだっただろうか。
彼が不器用なだけだったことに気づいたのは、実は結構表情の変化があると気づいたのは……いつからだっただろうか。
確信と言うには心許なく、けれど、気の所為と言うにはあまりに彼の変化は顕著だった。
或いは、変化したのは私の方なのかもしれないけれど。
彼がいない此処は、実に寂しい場所だった。
「……ル、……エール? ……ラビエール!」
「ひゃい!?」
ややはっきりと耳に飛び込んで来た自分の名前に我に返り、肩を跳ね上げた。
反射的に可笑しな返事を返し、その場でがばりと立ち上がると、社長席の男の人は目をぱちくりとした。
麻桐さんの不可思議そうな表情に、自分が置かれている現実にはたと気づき、かあぁと頬が熱くなる。
「あ、う……えっと、ぼんやりしていてすみません……あの、何の話でしたか?」
手元の本で顔を隠しながら、もごもごと謝れば、本の向こう側でくすりと笑う声が聞こえた。
「いえ、まだ呼び掛けただけなんですけれど、応答がなかったものですから」
すすすと本から目を覗かせると、頬杖をついてにこにことこちらを眺める麻桐さんの姿が見えた。
彼は言う。
「これはなかなか深刻ですね」
「? ……何か困り事でも?」
「いえ、そうではなく」
きょとんと尋ねても、まるで深刻なようにも見えない彼は、面白いものでも見るようにこちらを眺めているのである。
居心地の悪さに再度困惑を浮かべると、麻桐さんは私に座るよう手で促しながら言った。
「コストパフォーマンスの低下は盲点でした」
「こ、こすとぱふぉーまんす……?」
「まさか此処で相互作用の重要性に気づかされるとは。いやはや、一方だけを遠くにやるものではありませんね。両方とも全く同じような状態になるとは思ってもみませんでしたよ」
「そ、そーごさよー?」
一体何の話だろうか。
難しい言葉の群れに首を傾げると、上司は赤縁眼鏡を押し上げてこんなことを言った。
「イーヴィルが心配ですか?」
「ふぇ!?」
図星を突かれて間抜けな声を漏らすと、相手はにっこりした。
「おや、当たっていましたか。此処数日、ずっとぼんやりしていたので、気掛かりなことでもあるのかと」
麻桐さんは興味深げにこちらを見遣り、首を傾げた。
「てっきり彼と連絡を取り合っているとばかり思っていたのですが、その様子では違うみたいですねぇ。遣り取りしてないんですか?」
問う声にこっくりと頷き、静かに本を膝上に置いた。
「それがその……出張先を聞きそびれてしまったので、電話をしようにも時差があったら如何しよう、とか」
「ほう」
「メールをしようにもお仕事中だったら如何しよう、とか。そもそもお仕事用のポケコンに個人的なメッセージを送るのは如何なんだろう、とか。……色々と考えてしまい」
意味もなく膝上の本を弄繰り回しながら歯切れ悪く白状すると、麻桐さんはしばし思案するように沈黙した。
話すうちにふと頭に浮かぶ彼の背中に、ぼんやりと天井を見上げる。
ぱったりと関わりがなくなってしまったけれど、彼は忙しくしているのだろうか。
ちゃんとご飯を食べているだろうか。
ちゃんと眠っているだろうか。
彼の隣には、支えてくれる誰かがいるのだろうか。
いるとしたら、それはどんな……。
たった数日しか経っていないのに、もう何年も会っていないような気がした。
寂しい。
そんなことを言ったら、彼は笑うだろうか。
……迷惑そうな顔をするだろうか。
「……ラビエール? ラビエール! ……はぁ、駄目ですねこれは。似た者同士とはよく言ったものです。……わっ!」
「ひゃあんっ!?」
何故だか耳元で鳴る麻桐さんの大きな声と、背後から叩かれる肩に跳び上がり、大慌てで振り返ると、いつの間に移動したのだろう、私が座るソファの背もたれに頬杖をついた上司がにこにことこちらを眺めているのだった。
ばくばくする心臓を押さえながら目を白黒させていると、彼は言った。
「そんなに気掛かりでしたら、貴女にひとつ、お仕事をお願いしましょうかね」
相手の言葉に首を傾げて反復する。
「お仕事……ですか?」
「ええ、そう」
麻桐さんは社長席に置かれた小包を示して続けた。
「三日に一度、本社から各支部へ必要な物資や紙媒体の書類を送っていましてね、僕が中身を確認した後、本社一階の発送担当者に手渡しているんです。普段は昼休みと夕方頃にイーヴィルが一階まで運んでくれているのですが、彼が不在なので、彼が戻ってくるまで代わりにお願いできますか?」
目を瞬いた後、おずおずと頷いた。
「わかりました」
麻桐さんは幾つかの小包を私に寄越し、今気がついたとばかりに「嗚呼、そうそう」などと言って、ひとつを示した。
「この宛先の支部にイーヴィルがいるんですけどね」
「!?」
「小包を受け取る担当が彼なんですよねぇ」
「……それって」
相手が言わんとすることに気づき、目を丸くして勢い良く相手を見上げると、麻桐さんはウインクした。
「まあ、そういうことなので、頼みましたよ♡」
相手の言葉にぱあっと顔を輝かせ、私は力強く頷いた。
「はいっ! 任せてください!」
日が暮れるまでの時間がいつもよりずっと長く感じられた。
そわそわと時計を見遣り、もどかしい気持ちを押し込めて遣り過ごす。
そして定時になると、小包を抱えていそいそと自室に飛んでいった。
麻桐さんの話では、この小包を受け取るのはイーヴィルさんなのだから、きっと小包に手紙をつけたら気づいてくれるはずだ。
部屋に備え付けられた書き物机の引き出しを探り、幾つかのレターセットを選び取る。
封筒はできるだけ他の人の目に留まらないような、シンプルで業務的なものを。
そして本文を書く手紙の方は、一番気に入っているものを。
イーヴィルさんと一緒に外へ出掛けた時に買った、香料を染み込ませた用紙のレターセットである。
開封すると、ふわりとブッドレアの甘い香りが漂った。
「……なんて書こう」
ペンを手に取りいざ手紙と向き合うと、頭の中に浮かんでは消える言葉の群れに戸惑い、手が止まった。
書きたいことは山ほどある。
けれど、こうして手紙を書く機会がそうない私にとって、気持ちを文字としてしたためるのは幾分難しかった。
彼と遣り取りができるかもしれないという嬉しさと、上手くまとまらない自分の言葉に対する気恥ずかしい思いと、相反するふたつの感情を示すように、ペンを持つ手が何度か机の上をふらふらと行ったり来たりした。
しばし考え込んだ後、恐る恐る手紙の上にペンを走らせた。
『電話でもメールでもなく、手紙で連絡することをお許しください。急な出張だと聞き、会社のポケコンに連絡するのが憚られたものですから……。そちらの様子は如何ですか。仕事は忙しいのでしょうか。イーヴィルさんは、いつもたくさんの仕事を抱えてらっしゃるので、心配です。どうか無理をなさらず。こちらの方は』
イーヴィルさんがいなくて寂しいです、と書きそうになり、慌ててペンを放り投げた。
直球過ぎる気持ちを文字に起こすのは、あまりに恥ずかし過ぎた。
えっと、……えっと、こんなこと書いたら変に思われるかもしれないし……。
頭を悩ませた後、定型文を如何にかこうにか引っ張り出し、続きを書き始めた。
『こちらの方は特に大きな問題なく過ごしています。イーヴィルさんが戻るまで、しっかりと仕事を引き継ぎますので、心配しないでください。
P.S.麻桐さんから支部への小包を発送室へ届ける仕事を頼まれました。発送のタイミングと合わせて、手紙を送ります。ご迷惑だったら連絡ください。ラビエール』
ペンをそっと机の上に置き、書き終えた手紙を読み直して誤字を探し、……それからさらにもう一度読み直した。
綴り間違いがないことを確認したはずなのに、何となく何処かおかしいのではないかと不安になってしまう。
もっと文章は短い方が良いかな。
いやいや、もっと長い方がわかり易いのかな。
イーヴィルさんはどんな顔をしてこの手紙を読むのだろう。
そう思うと、大した内容でもないこの手紙が、途轍もなく難しい書面であるような気がした。
「わ!? もうこんな時間!」
はたと見遣ったポケコンのディスプレイに表示される時刻に跳び上がり、慌てて手紙を折り畳んだ。
頭を悩ませ手紙を仕上げる間に、かれこれ一時間ほど時計の針が進んでいたようだ。
可愛らしい手紙を飾り気のない封筒の中に隠してしっかりと封をし、自分自身の名前を差出人として添えて、駆け出した。
大慌てで到着した一階の発送室で、息切れする私を怪訝に見遣る社員の方は、首を傾げつつも手紙の入った小包をそのまま受け取り、発送してくれた。
どきどきしたまま自室に戻り、ぱたんと扉を閉めるとようやく手紙を出したという実感がすとんと胸に落ちた。
それと同時に湧く期待と高揚感。
彼は手紙を読んでくれるだろうか。
返事をくれるだろうか。
支部から本部へ物資が戻ってくるのは三日後だ。
そう思うと、次の仕事が待ち遠しかった。
「……早く三日後にならないかな」
呟き、赤い顔を隠すようにそのままベッドに頭から突っ込んだ。
「おや、今日は随分とご機嫌ですね、ラビ」
次の日、社長室の扉を潜った途端、麻桐さんがにっこりとそんなことを言った。
淹れ立ての珈琲をるんるんと運びながら、私は応じる。
「おはようございます、麻桐さん! 今日も良いお天気ですね!」
相手は何でもお見通しのようで、くすくすと笑いながら珈琲を受け取った。
「その様子では、気掛かりなことが解決したようですね」
「はい。麻桐さんのお陰です。心配がなくなったので、これからいっぱい働きますよ〜!」
両手をぐっと握り締めて宣言すると、麻桐さんは珈琲を啜りながら言った。
「それは良かった。僕もそうしていただけると助かります。これで三割落ちていた本社と二割落ちていた支部のコストパフォーマンスが上がるのは確実ですね」
「?」
「嗚呼、気にしないでください。こちらの話ですから」
きょとんと見遣れば、麻桐さんはぽんと手を打った。
「そういえば、イーヴィルから連絡があったのですが」
緊張に身を強張らせて、がばと勢い良く社長席を見ると、上司はのほほんと続けた。
「小包と手紙を受け取ったそうですよ」
「!」
その言葉にどきりと心臓がひとつ跳ねた。
手紙、という言葉に込み上げる嬉しさが出ないように、一生懸命顔を引き締める。
「そうですか……良かったです」
澄まし顔で取り繕い応じれば、緑髪の男の人はこちらを眺めて可笑しそうに言った。
「支部から明後日返信が戻ってくるでしょうから、受け取りお願いしますね」
「はい!」
伝えられる指示に、図らずとも明るくなる声に、麻桐さんはにっこりするのだった。
先日の反省を元に、頭を悩ませる時間を見越して早くに仕上げた手紙を封筒に入れ、小包と共に部屋を出た。
発送室までの道すがら、どんなに抑えても小走りになってしまうのはきっと、早く支部からの返信を受け取りたいという気持ちの表れだろう。
やはり何とも珍妙なものでも見るような社員の目に苦笑しつつ、麻桐さんの指示を伝えて納得してもらい受け取った小包に、手紙らしきものはなかった。
「あれ……?」
試しに裏側や側面を確認したものの、見間違いなどではなく、業務的な物資はそれ以上でも以下でもなく、唯の物資だった。
「何か?」
胡散臭げに問う担当者の声に顔を上げ、沈黙の後に首を横に振る。
「……いえ」
解せない気持ちのまま、しかし今日の発送分の小包と手紙を相手に渡して、すごすごと発送室を後にした。
エレベーターを待つ気も起こらず、階段をゆっくりのぼりながら手に抱えた支部からの返信を眺める。
(……忙しいのかな……)
てっきり、彼の筆跡を拝めると思っていた私の期待はあっさりと崩れた。
そもそも、返信の手紙が来ると決めつけていた私が浅はかだったのかもしれない。
彼は仕事で支部へ行ったのだ。
手紙なんて書いている暇はないだろう。
けれど……。
(手紙、読んでいないのかな)
麻桐さんから聞いた話では、彼は確かに手紙を受け取ったはずだ。
が、読んだとは言っていない。
彼の身に何かあったのだろうか。
そんな心配が頭を掠めた途端、冷たい手で掴まれたかのように、きゅっと心臓が縮み上がった。
踊り場で足を止め、ぼんやりと見遣る窓の外には夕焼けに染まる香港の街並みが見えた。
もうじき、日が暮れる。
影を帯びた高層ビルの群れはまるで、私の心を表しているかのようだった。
彼は、無事なのだろうか。
どきどきと徐々に心拍数が上がっていくのを感じながら、彼の頭上まで繋がっているはずの遥か虚空を眺める。
もし彼に何かあったのだとしたら、会社でこんなにも穏やかな時間が流れるはずがない。
きっと、麻桐さんや他の部下さん達が騒ぐはずだし……だから。
大丈夫、……のはず。
だとしたら、何故。
何故、返事が来ないのだろう。
ひょっとして……手紙は迷惑だったのだろうか。
そんなことを閃いた途端、何だか酷く悲しくなった。
しゅんと肩を落としたものの、思い直して首を横に振った。
(ううん、もし本当に迷惑だったら、イーヴィルさんはちゃんと麻桐さんにそう伝えるはず!)
彼は意思表明をはっきりする人だ。
許容できることなら黙認してくれるけれど、やめてほしいことは当然、そのように伝えてくる。
しかし、麻桐さんから聞いたのは、唯、手紙を受け取ったということだけ。
ならば、やはり手紙を読んでいないだけかもしれない。
そう自分に言い聞かせると、寂しいと叫ぶ心の中の声がすっと鳴りを潜めた。
また手紙を書こう。
そうすればきっと、暇な時に目を通してくれるかもしれない。
ひとつ頷いて気持ちを切り替え、私は荷物を抱き締めて社長室に向かって駆け出した。