ぼんやりと考えながら煙草の箱を胸ポケットに仕舞っていたところで、ぼそぼそと人の声が聞こえたような気がした。
俺は立ち止まって、耳を澄ませる。
「…で……」
「……まだ…べ……」
会話のようだ。
俺は足音を忍ばせ、廊下の角を曲がった。
すると、暗い廊下に一筋の光が漏れているのが見えた。
部屋の扉が僅かに開いていて、中の明かりが漏れているらしい。
否、漏れているのは明かりばかりではない。
「少しでも食べてみては? 温めた林檎をすり潰して、蜂蜜をかけてみました♡」
麻桐の声が聞こえたので、俺はそろそろとその扉に近づく。
「美味しそうですね…、あの……でも私、食べたくないんです。ごめんなさい」
鈴を転がすような声に、びくりとする。
遠慮がちに首を振る様子が、目に浮かぶようだった。
ああ、この部屋はあの少女の部屋ではないか。
俺は伸ばしていた手を扉の取っ手から引いて、ズボンのポケットに突っ込んだ。
入るのは、気が引けた。
「甘くて美味しいですよぉ?? まぁ、食べたくなったら食べてください」
別に強いるわけでもなく、麻桐はそんなことを言った。
部屋の中でコトン、と食器が置かれる音がした。
廊下の壁に背を預けて聴き耳を立てる。
そういえば最近、麻桐の帰宅時間は遅くなってきたよな。
そんなことが頭をかすめ、納得する。
つまり、俺の知らないところで麻桐は、ちゃんと少女に働きかけていたらしい。
何もしていないわけではなかったのだ。
か細い声が、扉の隙間から漏れた。
「あの、麻桐さん?」
「何でしょうか、ホワイトさん」
やんわりと応じるあいつに少女は言った。
「彼は、如何して殺されたんですか」
部屋の中でしばらく沈黙が続いた。
俺は床を見ながら、中の音に集中する。
少女が『彼』と称したのは、恐らく養父のことだろう。
やっと、麻桐が口を開いたようだ。
「それを知って、如何するおつもりで?」
「……」
今度は少女の方が沈黙した。
如何せん表情が見えないものだから、それがどの類の沈黙なのか、俺にはわからなかった。
「如何、って……」
少女は言った。
「唯、知りたいだけ…です」
如何やら先程の沈黙は、困惑だったらしい。
俺は壁に後頭部をつけて、天井を見上げた。
麻桐は唯、優しく尋ねる。
「知ったら、貴女は納得してこの先、生きていけますかね?」
ひっ、と小さく少女が息を吸い込むのが聞こえた。
「……それは…」
「まだ、心の整理がつきませんか?」
「……」
麻桐の問いに少女が何と答えたのか俺には見えなかったが、次の瞬間、麻桐が「まあ、そうでしょうね」と言ったことから、少女が頷いたのがわかった。
かつかつと足音がした。
これは麻桐だな。
麻桐が部屋で場所を移動したらしい。
少女がまた「あの…」と言った。
「麻桐さん達は、如何して私を助けてくれたんですか」
少女の問い掛けに、今度はあっさりと麻桐が答えた。
「白兎が欲しかったから、ですかね」
「しろうさぎ??」
きょとんとする少女に麻桐は言う。
「ええ、軍の中での呼び名(コード)は『白兎』。裏の世界では『世界支配者(ワールド・ロード)』と呼ばれる存在がいるんだそうです。都市伝説のひとつなんですけど、知りません?」
「知りません…」
「マイナーな話ではありますがね。『白兎』とは、実に使い勝手の難しい存在でして。……特に僕らや軍や国家にとっては。手元に置いておきたいが、他の手には絶対渡したくない。例え他の手に渡ってしまったとしても、至高の宝石より価値があるので、無闇矢鱈に壊したくはない。が、壊さないでおくと、まるで時限爆弾を抱えているのと同じような危険リスクを伴う。いやはや、本当に使いどころが難しいものですよ。いつ爆発して周りを破壊し尽くすか、わからないのですから」
「はぁ」
よくわからなかったのか、少女は曖昧な声で応じ、そしてまた口を開いた。
「つまり、その……しろうさぎさんを捕まえるのに、私が必要なんでしょうか…??」
俺は廊下で溜め息をついた。
たぶん麻桐は今、凄い楽しそうな顔をしているんだろうなと、そう思った。
案の定、次に聞こえたあいつの声は、笑いを含んでいた。
「まあ、そんなところ…いえ、惜しいと言っておくべきでしょうか。うーん、八十パーセント正解ですかね。ふふふ」
「???」
白兎は首を捻って考え込んでいるようだった。
彼女には、麻桐の隠喩が全く理解できていない。
無理もないことだ。
だって彼女は一般人なのだから。
急に、麻桐は真面目な声になって言った。
「だから、貴女には生きていて欲しいのですよ。……否、生きててもらわないと困る。例え貴女が、死にたがっていたとしてもね」
麻桐の言葉に、驚いたように少女は大きな声をあげた。
「わ、私……死にたがってなんか、いません」
「そうでしょうか」
麻桐の声は依然として、優しい。
「では何故、食事を摂ろうとなさらないのか」
「食べたくないんです」
「貴女は空腹でしょう。そして、食事を必要としています」
「…私……」
「イーヴィルの時に受けつけなかったのは、味付けが重過ぎたからです。本当は、点滴を付けて一日で、貴女の内臓は立ち直っていたはずでした」
責めるでもなく、麻桐は淡々とそう言った。
ぐう、と少女は言葉に詰まる。
俺は天井を穴が開くほど睨みつける。
それほど神経を部屋の音に研ぎ澄ませていた。
麻桐がことりと皿を手に取った。
「食べても戻したりしませんから、安心してお食べなさいな」
少女の呼吸が震えていることに気がついた。
少女は上擦った声で囁いた。
「食べたく、ないんです……!」
泣き出しそうに、彼女はそう訴えた。
麻桐は一体如何するつもりなのだろう。
俺には、この会話の行く末が皆目見当もつかなかった。
麻桐もそろそろ怒り出すのではないかとひやひやしていたが、その予想は外れた。
「ホワイトさん」
ぎしりとベットが鳴る音がした。
如何やら少女の隣に、麻桐が座ったようだ。
麻桐は言う。
「貴女は何を恐れているのでしょうか?」
不意にぱたぱたと微かな音がした。
水滴が落ちるような、小さな音だ。
……雨か?
廊下の窓に目を凝らしたが、暗過ぎて天気はわからなかった。
「恐れている? ……恐れているですって?? 私は……私は何もかも怖いですよ麻桐さんッ!」
弾かれるように立ち上がる音と少女の声に、俺ははっと窓から視線を外す。
大きな音が部屋から漏れた。
「だってそうでしょう!? 人が、…黒龍神が死んだんですよ!? おかしいじゃないですか! この世界はおかしい! 如何して普通に回っているの!? 如何して何事もなかったかのように皆みんな生活しているの!? 最初から黒龍神なんかいなかったみたいにッ!!」
彼女は狂ったように喚く。
心臓が痛いくらい鳴っていた。
つくづく、部屋の中にいなくて良かったと思った。
少女は言う。
「黒龍神がいなくても平然と回ってるこの世界が怖いです! このわけのわからない状況が怖いですよ、麻桐さん! 彼は確かに此処にいたの! 如何して皆忘れちゃうの!? 忘れることは罪だわ……だから、…だからせめて私だけは黒龍神を覚えていようって……」
少女の声は嗚咽混じりになった。
吃逆を上げながら、少女は言い続ける。
「それなのに、如何して私…如何して…如何してぇ!? 普通に生きて、それで彼を忘れかけて、まるで彼がいなくても平気みたいに。……私は、自分が一番怖い…。こうして生き続けている私が…」
悲鳴のように心の中を吐き出して震える少女に、麻桐は唯、静かに言った。
「貴女が死んでも、彼は救われませんよ」
「それでも……それでも、彼は独りぼっちじゃなくなります…」
鼻をすすりながら、彼女は小さく呟いた。
限りなく消極的な自殺を図っていた彼女の声は、震えていた。
俺は廊下で立ち尽くす。
静かな部屋に麻桐の声が響いた。
「死んでも何も変わりません、この狂った世界も、彼が無惨に死んでいったこともね」
少女のすすり泣く声が聞こえる。
耳を塞ぎたくなるほど、痛々しい声だった。
思わず壁から背を離して、扉の隙間を見た。
立ったまま乱れた息で身体を震わせている金髪の少女と、その前のベットに座っている緑髪の男が見える。
麻桐は少女を見上げた。
俺の手が扉の取っ手に触れた時、あいつの声が耳に届いた。
「生きて何か変えられることもあるでしょう。…知りたくはありませんか? 何故、彼が殺されなければならなかったのか。その真相を。その……犯人を」
少女の肩が跳ねるのを見た。
俺の手が停止し、扉を開けることを躊躇う。
結局、俺は扉を開けることなく、その場で会話を聞き続けることとなった。
「あなたは」
少女は麻桐を見つめながら囁いた。
「あなたは、彼を救ってくれるの…?」
「いいえ」
きっぱりとあいつは否定した。
でも、と麻桐は続ける。
「貴女のことは、救えます」
ぼろぼろと少女の目から大粒の涙が零れていくのが見えた。
麻桐は静かに笑って、座ったまま少女に手を伸ばした。
手を差し出したまま、あいつはあの時と同じ言葉を少女に贈った。
俺を救い出した時と同じ言葉を。
「一緒に世界を壊しませんか?」
この間違(くる)った世界を。
思い出少女と孤独な時間2
(俺は麻桐が羨ましい)
(俺は、少女に前を向かせることすら出来なかったというのに)
(少女の手が麻桐の手を掴んだのを見届けて、静かにその場をあとにした)