「……それで、イーヴィル?」
「それでも何も、あいつ、吐いちまったよ。まあ絶食してたから、吐くものなんか何もなかったんだが。…そもそも、身体の方が何も受けつけねぇみたいだ」
「無理もありませんねぇ」
麻桐はのほほんと茶をすすって言った。
「考えてもみれば、彼女は死体……それも親の惨殺死体を見ちゃったわけですから」
「それが如何した?」
よくわからなくて聞き返すと、麻桐が微かに眉間に皺を寄せた。
「僕らの価値観で測るべきことではないのですよ。見慣れている僕らと、唯普通の生活を送っていた十六歳の少女と、同じ考えが通用するとでも? ではイーヴィル、三歳の時の貴方を思い返しなさい。親が目の前で殺されて、如何感じました?? ……彼女の感覚が正常であって、その感覚が麻痺した僕らが狂ってるんです」
「……」
「おわかりになりましたか?」
はあ、と呆れたように麻桐は溜め息をついた。
俺は絶句する。
ようやく、一般人と俺との間の隔たりに気がついた。
いつの間に俺は、『こちら側の世界』に慣れてしまったのだろう。
痛い少女の瞳がよみがえった。
唯、笑って。
……笑って。
俺を見つめて弱々しく微笑む少女が、記憶の中で鮮やかだった。
では、そんな気持ちを抱えて笑う少女は、何なのだろう。
誰も責めずに、唯、笑って。
……笑って。
(施されていたのは、どっちだろうな)
ぽつりとそんなことを思った。
与える者と、施される者がいる。
基本的に与える者が強者で、施される者が弱者だ。
救われていたのは、助けられていたのは、……俺か?
少女なのか??
「ともあれ」
麻桐はパンと手を打ち合わせて空気を変える。
思考を中断した俺が見れば、麻桐は肩を竦めていた。
「出会ってしまったことも事実。あの娘に、現実を受け入れてもらうしかありませんねぇ。どれほどつらくとも、いつまでも幻想に縋っていてはこの先、生きてもいけないでしょうしね」
平然とこいつは残酷なことが言える。
俺は上司をまじまじと見た。
「あの小娘を『こちら側』に引っ張り込むつもりなのか、麻桐?」
危惧する俺に、麻桐はにこりと笑った。
「いやですねぇ、イーヴィル。そんなこと言ってませんよぉ~。唯、『生きるための目的』くらいは与えてあげないと、ね。道標ですよ、唯の。僕にとっての『世界』を」
「俺にとっての『復讐』を、か??」
俺の言葉に、麻桐は目元を優しくした。
「安心なさい。要は、生き続けるきっかけに過ぎない。絶望した人間に与えるべきなのは、希望でなく目的です。立ち直れば、自ずと自分で歩くでしょう。僕はあの娘が欲しい。が、『こちら側』の人間にするつもりはない」
というか、と麻桐は笑顔で続けた。
「彼女は、『こちら側』でいるには優し(よわ)過ぎますので」
あれから一週間経ったけれど、結局、状況は変わらない。
少女はやはり何も食べないし、麻桐はず―――っとにこにこしている。
変わったことと言えば、少女の腕に栄養剤の点滴が付いたことくらいだ。
「つうか、それも唯の気休めだよな」
夜の廊下を歩きながら、呟いた。
さすがに少女の栄養失調を無視できなくなって、麻桐が医者を呼んだお陰で、一週間もったのだけれど。
さて、如何やって少女に食事を摂らせたものか……。