わけのわからない小娘を拾って二日目。
ようやく俺は、Requiemの本社へ戻ってきた。
隣を見れば、その奇妙な拾いものラビエール・ホワイトがそそり立つ高層ビルをぼんやりと見上げている。
そのか細い首には、金色のカメオが輝いていた。
「随分と時間食っちまったな。……疲れたか?」
小さな彼女を見下ろして、尋ねた。
そもそも尋ねるまでもあるまい。
結局、疾走する貨物列車が停止したのはイタリアで、俺達は止むを得ずその晩を安ホテルで明かすことになった。そして夜明けに、目立ち過ぎる少女を少年に変装させて、軍の包囲網を抜けるのに一日。その後、友人の伝手で飛行機を飛ばして数時間。
俺ですら、疲労困憊している。
しかし、少女は血の気の無い顔で俺を見上げて、微かに笑った。
「いいえ、平気です…」
ぽつりとそう言って、少女はまた建物へと目を向けた。
突風が彼女の被っていたキャップ帽を吹き飛ばしていく。
くすんだ金色がふわりと広がった。
少女が少年ではないという証である、長いふたつ縛りの髪が露わになったのだ。
お粗末な変装ではあったが、無事に辿り着けたことに息をつく。
安心したはずなのに、少女のその瞳が俺の心中を荒らしていった。
心が、騒めく。
俺は舌打ちをして言った。
「行くぞ」
少女は唯、ふらふらと俺に従った。
結局その日少女が発した言葉は、これだけだった。
「しかし彼女は何も食べませんね」
麻桐は呆れたようにトレーの食器共を眺めた。
パンにも、既に冷め切ったスープにも、手を付けた跡はない。
俺は苛々しながら、書類をホチキスで留めていく。
「信用してねぇんだろ」
毒とか心配してんじゃねえの?
投げ遣りにそう言ったら、麻桐に鼻で笑われた。
「あの娘はド素人(一般人)さんですよ? そんなこと、心配しませんよ。考えてすらないでしょう」
「じゃ、何で食わねぇんだよあの馬鹿。もう三日目だぞ」
手の中で、がしゃこっと音がする。
あっ……くそ、曲がっちまった。
麻桐はふうと息をついて、新しく温かいスープをこちらに差し出した。
「はい、これ」
「………………何だ、これ」
「スープですが」
「そんなの見りゃわかんだよッ! 何で俺に渡す!?」
びしぃっと指を突きつければ、麻桐は飄々と言った。
「彼女に食べさせてください。食事はおろか水分も摂っていませんし、そろそろ身体的に限界でしょう。……死にますよ?」
俺が何か言おうと口を開きかければ、麻桐はトレーを突き出す。
「連れてきたのは貴方でしょう?」
とどめを刺され、俺はトレーを引っ手繰って立ち上がった。
「っ行きゃあ良いんだろ……」
不機嫌に吐き捨てて、息も荒く歩き出した。
麻桐はあいつを気にかけているらしい。
本当、あの小娘は何なんだ??
そんなに利用価値がある奴なのか?
失うには惜しい逸材なのか?
俺には理解できない。
唯言えるのは、今のあいつが俺達を必要としていないということだけだった。
例え俺達があいつを必要としていたとしても、だ。
気が重い。
心が、騒めく。
俺はあいつが苦手なのだ。
扉を開けて最初に目に飛び込んできたのは、床に倒れた少女だった。
一瞬で呼吸が止まったような気がした。
「!!!」
スープが零れるのも構わずトレーをテーブルに押し付け、素早く少女の傍に膝をつく。
「おい! 小娘!」
抱き起こし、浅く息を吸った。
心臓が有り得ない速さで肋骨を打っている。
頼むから……。
「おい!!」
俺は一体何を焦っているのだろう?
こんなこと、昔から幾らでもあっただろう?
もっと酷い修羅場でも取り乱さなかった癖に、……俺は。
俺は、何を恐れている??
「こく、りゅ…し……」
吐息のように消えそうな声で、少女が呻いた。
苦しそうに顔を歪めて、少女は荒く呼吸をする。
うなされているようだった。
俺は少女の首に指をそえて、脈をとった。
とくんとくんと少女が確かに生きている音が、指に伝わってくる。
少し速いが、正常だ。
思わず脱力して、深く息を吐き出した。
「っは――――……。心臓に悪い」
如何やら寝倒れたか、貧血で気絶したらしい。
少女の首からおずおずと指を離したところで、相手の瞼が震えて、ゆっくりと開いた。
どんよりとした透明に近い青が、俺の目を凝視する。
「……だ、れ…?」
揺れる少女の瞳に、俺はまた息が止まるような思いをする。
「イーヴィル・B・レイン。これで二回目だな」
何とか平静を装って答えれば、相手は自力で身を起こして頭を押さえた。
「いーゔぃる、ぶらっど、れいん……? イーヴィル……。……………あ。ああ、イーヴィルさんですね」
心配になりそうなくらいふらつきながら彼女は立ち上がって、ベットに腰を下ろした。
俺は床に胡坐をかいて、苦しげにこめかみを押さえる少女を見上げた。
「大丈夫か?」
少女の顔は、蝋人形のように白かった。
三日間の絶食絶飲で、少女の金髪も色褪せている。
俺は耐え兼ねて、少女の膝に視線を落とした。
まるで花が液体窒素に漬けられたかの如く、生き物が造り物に変わってしまうような。
美しいままで、既に朽ちているような。
弱り切った、感覚。
うら寒さを覚えた。
少女は言った。
「大丈夫です。……すみません」
思わず顔を上げた。
何が大丈夫なものか。
睨み上げた先には、困ったように笑う少女がいた。
彼女は笑っていた。
言葉を失い、唯、彼女を見る。
如何して笑う。
何故そんな顔で謝る。
わけが、わからない。
俺はどぎまぎと立ち上がった。
如何やらこいつは、俺に迷惑をかけていることに申し訳なさを感じているらしい。
心が騒つく。
苛々する。
「子供が、要らねぇ気遣うな。そんなの侮辱でしかねえ」
低い声で言えば、少女は縮こまって謝った。
「……すみません」
「大丈夫でもねぇだろ。ふらふらしてる癖に」
「……すみません」
怯えた小動物のようにこちらを見上げて、相手はまた謝った。
あああだから違う。
俺はこんなことが言いたいのではない。
責めを負わされるべきなのは、残念ながらこの少女ではないのだ。
これではまるで、弱い者虐めではないか。
舌打ちし、少女のすぐ近くのベットスタンドにトレーを置いて言った。
「とりあえず、食っとけよ。身体もたねえぞ?」
「…あ、あの」
少女は弱々しく俺とトレーを交互に見て言った。
「ごめんなさい。でも、食欲ないんです…」
少女の言葉に、どくんと鼓動が鳴った。
少女は困惑した顔をしていた。
そりゃ三日も何も食べなければ、確かに食べたくなくなるだろう。
俺は浅く息を吸い込んだ。
嗚呼、この心の騒めきが何なのかを知った。
そうか。
俺は、この少女を憐れんでいるのか。
痛々しくて、弱々しくて、つらい。
見ていたく、ない。
だから俺は、こいつが嫌いなのだ。
こいつは、俺にまで弱さを投影する。
俺が如何に無力か、思い知らされる。
俺がどんなに弱い人間なのかを。
この少女は身を以て、示す。
片手で顔を覆って、天井を仰いだ。
先程から噛んでいた唇を犬歯が傷つけたのか、微かに血の味がした。
俺は消えそうな声で、呻いた。
「…食べてくれよ、…頼むから……っ」
このままじゃおまえ、死ぬんだぞ。
そう心の中で告げた。
如何やら俺は、如何してもこの少女が死ぬことに我慢ならないらしい。
理由なんて知らない。
唯、如何しようもなく間違っているような気がしたのだ。
揺れる光と、静かに降る雫。
俺はまだ、あの雨の名を知らない。
「たっ、食べます!」
慌てたように彼女はスプーンを手に取った。
その反応に、俺自身が一番驚く。
呆然と、少女がトレーを勢いよく引き寄せるのを見た。
如何やらこの少女、意地を張っているわけでなく、本当に健康の欠陥から食べたくなかったらしい。
それでもやはり気を遣っているのか、少女は無理矢理スープを口に含んで飲み込んだ。
「……」
「……」
「…美味しいです」
「…そうか」
「美味しい、です、けど……」
「けど?」
俺は首を傾げた。
とりあえず食べてくれて安心したのも束の間、みるみるうちに少女の顔が真っ青になった。
「~~~……」
口を両手で覆って、彼女は勢い良く立ち上がった。
少女は涙目になっている。
そのまま少女は、この部屋に付属しているバスルームへと走っていってしまった。
呆然とする俺を残したまま。
思い出少女と孤独な時間1