「私は」
ラビエールは怒っているようだった。
俺は目を丸くして、眼前の奇異な光景を眺める。
「私は、あなたが嫌いです」
震えながら、彼女はきっぱりとデスクの男、青蓮に言った。
「イーヴィルさんはあなたと違う。一緒にしないで……っ」
その震えが、恐怖ではなく怒りから来るものだと知った。
思えば、ラビエールとあの貿易商人がどんな会話をするのか、皆目見当もつかなかった。
鼠の巣窟に少女を連れて来た時も、ラビは建物を見上げてのほほんと言った。
「随分と異国情緒のある(エキゾチックな)建物ですねぇ」
何処まで神経図太いんだコイツ。
俺は空を仰いで息をつく。
或いは、本当に危険を感じ取るスキルの無い一般人なのか。
無知とはすなわち、最強を意味する。
知るまで恐怖がないからだ。
俺は少女を見下ろして、説明を始めた。
「此処には、貿易を生業とする奴が住んでいる。名をショウレン。…危険な男だ」
初めてラビエールは不安そうな顔をした。
「イーヴィルさんの友達ですか?」
「友達じゃねえ」
即答した。
俺の勢いに相手はとても驚いたのか、目を丸くしている。
しばしの沈黙の後、咳払いして話を元に戻す。
「で、そいつが何故かてめぇに会いたがってな」
ラビエールはぽつんと呟いた。
「私、に」
わけがわからないようだった。
お陰で俺は、こいつと青蓮が知り合いではないことを、容易に悟ることができた。
と、すればあの男、唯の気紛れでも起こしたか。
「巻き込んで悪かった」
そう詫びれば、ラビはふるふると首を振った。
「いいえ、良いんです。あのう……聞いても良いですか?」
遠慮がちに上目遣いで、彼女はおどおどとそう尋ねてきた。
「如何した」と応じれば、彼女は言う。
「私、如何なるんですか…??」
俺は内心、舌打ちをした。
こんなことが日常茶飯事であるから、いつの間にか俺は一般人の感覚を忘れかけていた。
今の話の流れでは、ラビが怯えるのも無理からぬことだ。
恐らくラビは「俺達に捨てられる」と思っただろう。
そんなことにすら配慮できない自分が嫌だった。
俺は溜め息混じりに言う。
「如何なるも何も、会ってさっさと帰んぞ。夕飯に遅れると、シメられるの俺なんだ。日が暮れる前に『ふたりで帰る』」
俺の言葉に、ラビの肩の力が抜けるのを見て取った。
ラビは弱々しく「そうですかー」と笑う。
俺のことを心から信用しているらしい。
ずきりと胸の奥が痛んだ気がした。
俺は言った。
「相手に何か聞かれてわからなければ、知らないとだけ答えればいい。危険な男ではあるが、金にしか興味がねぇ。金にならない奴に危害を加えるほど、あいつも暇じゃないからな」
その言葉に、ラビは安心したように言った。
「じゃあ、きっと大丈夫ですねぇ」
やっぱりこいつは並々ならぬ度胸を持っているらしい。
俺は黙ったまま、少女を連れて歩き出した。
できるだけ早く終わらせて帰りたかった。
さて、部屋に入った途端、ひゅうっと口笛の音がした。
「こりゃ驚いた。おいおい冗談だろ、イーヴィル・B・レイン。まさかそのカワイ子ちゃんが」
「てめぇの会いたがってた白兎だ」
低い声で相手の声をかき消してやると、男はぐうと黙った。
ラビは俺の服の端をきゅうと握って、自分のコートのポケットにポケコンを仕舞い込んだ。
部屋に入るまで、少女はずっとポケコンを弄繰っていたのだ。
青蓮は肩を竦めて笑った。
「冗談じゃないみたいだな」
「冗談なんか言うかよ」
この男相手に。
俺は部屋に目を走らせた。
部屋に居る人間全員の目が、少女に注がれているのがわかる。
居心地悪そうなラビに向かって、デスクの男は言った。
「ようこそ、我が城へ。おれが此処の主だ。…で、お名前は?」
「ラビエール」
消えそうな声で言った後、ラビは少し大きな声で言い直した。
「ラビエール・ホワイト」
唐突に笑い出した青蓮に、少女はびくりとした。
くっくと声を漏らして、男は言う。
「成程、それで白兎ね。軍人共にもユーモアがある。……いや、失礼。立ちっ放しも何だから、座りなよ白兎チャン」
ラビは俺を心配そうに見上げてきた。
俺は少女の背に手を添えて、ぼそぼそと言ってやった。
「俺がてめぇの後ろに立っててやる。安心しろ」
ラビは言われるがまま、ひとり掛けソファに座った。
俺はすぐ後ろに立つ。
青蓮は言った。
「茶は要るかい? …珈琲?」
「いえ、お構いなく」
ラビは小さな声で断った。
ますます相手の笑みが深まった。
「酒、って顔でもねえか。薬は??」
「ショウレン、こいつは一般人だ」
忠告すると、男はハイハイと首を振った。
青蓮は笑顔でラビを見る。
「おれを知っているかい、白兎?」
「少しだけ」
と、ラビエールは言った。
彼女は何かを思い出すように宙を見る。
「李青蓮さん。貿易会社の社長さんで、中国を拠点にアフリカから宝石を運んでいます」
「お利口さんだねぇ」
男の目が怪しく光った。
「何処で知ったんだい?」
「警察内ネットワークの中に顔写真と経歴が書いてありました」
ラビエールの言葉に、部屋内が騒めいた。
動かなかったのは青蓮とラビと俺くらいなものだ。
青蓮はお道化たように言った。
「おれの情報が警察に! 驚いたねぇ、そりゃあ。……じゃあもっと他のことも書いてあったんじゃねえのか? くっくっく」
ラビは俺を窺い見る。
俺は好きに話して良い、と唇だけ動かして示した。
ラビは再び前を向いた。
「青蓮さんは、表向きには宝石を売り買いしていますが、裏では薬と人間を売り買いしています」
男はにやりとした。
「ご名答」
俺は唯この会話に耳を傾ける。
まだ俺は、ラビの影で良い。
青蓮はふと思い出したかのように少女に向かって言った。
「白兎チャンの親は軍人らしいね」
「……?」
ラビは薄青い瞳を見開く。
如何やら驚いたようだった。
ありゃ、と男は首を傾げた。
「何だよ、黒龍神って男が何なのか知らないのか? てっきり、そいつからネットを乗っ取る技術(スキル)を学んだのかと思ったが」
ラビの顔からみるみるうちに血の気が引いた。
「知りません……」
「へぇ……。何だよイーヴィル。教えてねえのか?? 冷たい奴だな」
青蓮が嘲笑った。
「じゃあ、あれかい白兎チャン。イーヴィルが何なのかも知らないのか?」
ラビは言う。
「知りません」
「麻桐のことは? さすがに知ってるよな?」
「知りません」
「あんた、『自分が一体何処にいるのか』わかってんのか??」
相手のにやにや笑いに耐え兼ねて、ラビエールは震え始めた。
「わからないです」
見兼ねた俺は、少女の腕を掴んで立ち上がらせた。
俺は青蓮をきつい瞳で睨みつける。
「もう良いだろうショウレン。白兎には会わせた。条件は満たしたろう!」
「おいおい待てよ、イーヴィル・B・レイン。逃げるな逃げるな、ゆっくりしてけよ、なぁ」
青蓮が手を振れば、部屋の扉を数人が固めてしまう。
俺達は立ち止まるしかなかった。
俺は吼える。
「ショウレン!」
「良いこと教えてやるよ白兎」
男はデスクに足を投げ出して、俺を無視する。
「隣にいる男も、おれ達とそう変わらねぇ奴だよ。金のために人を殺す。情報のために騙し合って、蔑み合って、蹴落とし合って生きてんだよ。あんたは無知だ。その癖どんな情報だろうが手に入れちまう、手に負えねえバケモンだ」
青蓮は冷たい目で俺を見て続けた。
「つるむ奴を間違えるな白兎。あんたは世界だって手に入れられる。そいつに飼われてる、そんな小さな器じゃねえだろ。さっさとそんな男、『見捨てちまえよ』」
「私は」
不意に、静かな部屋に響く声が凛と闇を切り裂いた。
ラビエールは怒っているようだった。
「私は、あなたが嫌いです」