ひとつ学んだことがある。
(パーティーって恐ろしいな…っ!)
男の人、女の人、人、人、人。
笑い声、談笑、食器の音、音、音。
雑音。
如何にかこうにかバルコニーに出れば、宵の風が前髪を揺らした。
涼しくて気持ち良い。
パーティーの華やかな音が遠のいた気がした。
私はぐったりとする。
(早く帰りたい…)
如何して麻桐さんは、私を連れて来たのだろう。
私にはさっぱりわからない。
溜め息をついていると、不意に肩を叩かれた。
イーヴィルさんだ!
そう顔を輝かせて振り向けば、私の期待はものの見事に裏切られた。
後ろには、知らない男の人が立っていた。
「君、ひとり?」
若い男の人が白い歯を見せて笑う。
一方、裏切られた期待が大き過ぎて私はがっかりした。
心の底から落胆しながら、ふるふると力無く首を振ってみせる。
「いいえ、人を待っているところです」
「酷い奴だなぁ」
相手は待ち人を鼻で笑い、こちらにずいと近づいて囁いた。
「こんな可愛い子をほったらかすなんて、さ」
私は男の人を見上げながら、思わず一歩後ろに下がった。
とん、と腰がバルコニーの手すりに当たる。
そちらに目を遣った刹那、ぞわりと背中を寒さが駆けた。
息を飲んで相手を勢い良く見る。
首を撫でられた、のだ。
男の人はするりと私の首筋をなぞって言った。
「僕と一曲どう?」
ちょうど会場に音楽が流れ始めるところだった。
知らない人に触れられて、私は動揺した。
如何すれば良いのか、全然わからない。
「わ、私…踊るの、苦手なんです」
仰け反りながら引き攣った笑みを浮かべると、相手は「へぇ」と呟いて流し目をする。
「教えてあげるよ……??」
これ以上下がったら、きっとバルコニーから転落するだろう。
そのくらい、私はいつの間にか手すりの端まで追いやられてしまっていた。
会場の笑い声が、遠い。
私は逃げるように身を翻して言った。
「すみませんけれど、私……」
ドレスの裾を踏みつけた。
否、踏みつけたのは私ではない。
この男の人が……踏みつけた気がしたのだ。
がくんと、私はドレスに引き戻される。
「ねえ、君の連れなんて放っといてさ。話でもしようよ」
男の人はにっこりと笑って、そんなことを言った。
さらに身を寄せた相手の手がバルトニーの手すりにつくのを見た。
……こ、…。
(こ、わい)
怖い。
そう思った。
相手の影が、私にかかっている。
背の高い男の人は、まるで壁のように見えた。
ざわりと頭の中が騒めいた。
何かを思い出しそうで、その感覚に怯えた。
思い出してはいけない気がした。
ぎゅうっと目を閉じれば、唐突に男の人が「ん?」と眉をひそめた。
「君さー、あの人に似てるね。うーんと、……何だっけな、あの女優」
「え??」
何を言われているのかわからなくて、つい呆けた声を漏らしてしまった。
開いた目に映ったのは、残酷なほど能天気な笑顔だった。
話題を広げるのに夢中な男の人は、思い出したのか、嬉しそうに手を打った。
「あ、そうそうあれだ! 舞台女優キリカ。君、美人だね」
キリカ。
私は口を片手で押さえる。
頭の中で、ガラスが割れるような音がした。
キリカ。
きりか・ほわいと。
カメラの白いフラッシュの中、レッドカーペットの上で周りの人間に笑顔を振りまく女性が。
駄目ダヨ。
頭の中で、誰かが笑いを含んだ声で囁いた。
駄目ダヨ、思イ出シチャア。
男の人は、私の様子に気づかない。
「でも彼女は黒髪だったね」
相手の声が鼓膜を振動させ、脳に突き刺さった。
どくんと鼓動がひとつ鳴る。
私、…私は金髪で。
彼女は黒髪で。
羨ましくて。
如何して、私は金髪だったんだろう。
如何して。
何故。
女の人の泣き叫ぶ声が聞こえる。
如何シテおまえハ、アノ人ト同ジ金髪ナノ。
奇妙な浮遊感を覚えた。
今にも、吐いてしまいそうだ。
「っ……」
私は口を押さえたまま、紅いドレスをきつくきつく握り締めた。
息が、できない。怖い。
怖い。
怖い怖い。
怖い怖い怖い怖い怖い。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖いこわい、コワイ。怖い!
不意に誰かに腕を引っ張られ、私はよろけた。
そのまま誰かの胸に納まる。
「待たせたな、ラビ」
優しくて、低い声が降ってきた。
動転した頭のまま見上げると、見慣れた眼帯。
それに綺麗な紅い瞳がすぐ其処にあった。
「イヴィ、さ……」
強張った喉から、彼の名が漏れた。
イーヴィルさんの顔を見た途端、思い出したかのように身が震え、心拍数が一気に急上昇した。
ぐにゃりと景色が歪む。
「っは…はあッ……はあ…」
私は彼にしがみついて、浅く息をした。
とても立ってなんかいられなかった。
怖い、という感覚は、まだ泥のように私の思考にこびりついている。
私は吹き出す冷や汗を感じながら、彼の胸の中で唯がくがくと足を震わせていた。
そっと窺い見れば、私に声を掛けた男の人は既に私を見ていなかった。
男の人は、嫌悪の眼差しをイーヴィルさんに向けている。
男の人が言った。
「誰だ、あんた」
男の人の問いに、イーヴィルさんは私を引き寄せながら応じた。
その表情は至って冷静だった。
「こいつのツレだが??」
私の肩に置いた手に、力がこもっている。
私は額の汗を拭いながら、怯えた目で男の人を見た。
嗚呼、この人。
この人、イーヴィルさんを怒らせた。
男の人は小馬鹿にしたように私を一瞥し、再びイーヴィルさんを見た。
男の人は冷笑する。
「酷い連れがいたもんだ。僕なら『こういう娘』、放っとかないな。…そんなに大事なら、首輪でもつけとけよ」
すう、と空気が冷えた。
「オイ」
重低音が私の頭上から聞こえた。
見上げた先のイーヴィルさんの紅い目がギラついていた。
触れたら指を切ってしまいそうな鋭い覇気が、辺りを支配していた。
彼の口から微かに息が漏れる。
唯の一言、彼は言った。
「次に無駄口叩いたら、ぶっ殺すぞ小僧」
私は息を飲んだ。
イーヴィルさんの紅い左目の奥で、きゅーっと瞳孔が開いていくのを見たのだ。
彼の放つ威圧感に、相手はう、と尻込みした。
ようやく自分が置かれた状況を理解したらしい。
イーヴィルさんは私の肩に手を置いたまま歩き出した。
私もそれに従う。
横を通り抜け様に、イーヴィルさんは相手の手に軽食用の食器を押しつける。
無表情のイーヴィルさんが男の人の耳元で囁いた言葉は、私にも聞こえた。
「暗闇に気をつけろ。これから、背後に用心しながら帰るんだな。……こいつにこんな顔させた罪は重いぜ、クズ野郎」
さあーっと男の人の顔から血の気が失せる音が聞こえてきそうだった。
私は首を縮める。
他人に向けられた言葉とわかっていても、肌に刺さるぴりぴりした空気が痛かった。
怯える少女とマフィアの男
(そんなイーヴィルさん、初めて見ました)