俺が部屋に入った時には、相手は既に虫の息で。
そいつは俺を見るなり言った。
「軍…人か?」
如何やら、この暗い部屋の中で目が利かないらしい。
否、この出血量だ。
目が霞んでしまっていても仕様がないだろう。
俺は静かに言った。
「否。残念ながら違う」
「そうか……」
相手は何故か酷く安堵した表情を浮かべた後、苦しげに咳込んだ。
俺は部屋を見回す。
書斎のようだが、荒らされた形跡はない。
きちんと整頓された本棚も、積み上がった書類も、唯々この男と俺を静かに見下ろすばかりだった。
不意に足を掴まれたので、びくりと肩を跳ね上げた。
見れば床の男が、最後の力を振り絞って俺に縋っているのだった。
「…たの、む……」
口角に赤い泡を滲ませながらも、その男の瞳は強い光を湛えていた。
漆黒の瞳に、漆黒の髪。
闇のような男。
整った顔に苦痛の色を浮かべながら、男は言った。
「金色の髪の少女……あの娘に、これを…あの娘に伝えッ…」
俺は、激しく咳込む男の方へ身を屈めた。
あの娘、とは誰なのだろう。
この屋敷に女でも居るのか…?
赤く染まった震える手には金色の鎖のカメオが握られていた。
男はがくがくとそれを必死に俺の手へ伸ばす。
「私はッ…いつでも君を愛し、ていると、…君は生きろ、と……彼女に伝えてくれ…!」
俺はじっと相手を見つめた。
職業柄、このようなことは日常茶飯事だった。
俺は知っている。
死神の吐息を目の前にした人間が求めるのは、いつだって心の安息なのだと。
だからこの震える手に握られた小さな光を受け取ったのは、唯の気紛れだったのかもしれない。
俺は微かに頷いてやった。
「任せろ」
男は、穏やかに息を吐き出した。
「ありがとう」
糸が切れたように、男の手は重力に従って床に落ちた。
ぱしゃん、と赤い池の上であまりに呆気無い音がした。
相手の目から光が薄れたので、微かな溜め息を漏らす。
つくづく変な時にこの屋敷を訪ねてしまったものだ。
如何してくれんだよ麻桐…と見えない上司に心の中で呟いていると、かたん、と物音がした。
「こくりゅうしん?」
鈴を転がすような声がした。
恐る恐るといった感じで、扉からひょっこり顔を覗かせる人物。
明るい廊下を背景にして、その影シルエットはさらに扉を開ける。
「黒龍神ってば。…ねぇ、さっき大きな音がしたから、如何したのかなって思って………」
相手の言葉が尻すぼみになって消えた。
俺は唯立ち尽くす。
暗い書斎に入ってきたのは少女だった。
大きな儚い青色の瞳。
輝く金髪が印象的だったのを覚えている。
最悪だ、と思った。
血濡れの床に転がる男と、その傍で立ち尽くす俺、しかも俺の右手には銃がある。
この状況で勘違いをするなという方が無茶だろう。
しかし心配を余所に、その少女はふらふらと歩いてきて、俺の前を素通りした。
その大きな瞳は虚ろで、床の男しか見えていないかのようだった。
「こく、りゅうしん」
少女は血で汚れるのも構わず、かくんと膝を折って男に手を伸ばす。
その手は微かに震えていた。
ぎゅう、と。
彼女は男を抱き締めた。
「黒龍神…」
か細い声が俺の鼓膜を振動させた。
痛いくらい、辛いくらい、少女の手に力がこもっていることが、此処からでもわかった。
俺はどぎまぎと目を動かす。
少女は泣いていた。
大粒の涙を惜しげもなく目覚めぬ男に捧げていた。
しかし、一言も嗚咽すら漏らさずに、唯ゆるゆると涙を流すのだ。
あまりにも静かな悼み方だった。
俺は泣き叫ぶ人間を幾らでも見たことがある。
何度も何度も名を呼び、揺す振り、そうして俺に如何してと罵声を浴びせる奴は、何人もいた。
何故この少女がそんなふうに、生きている自分のために泣かないのか理解できなかった。
恐らく彼女は本当に、唯、その男のために泣いていたのかもしれない。
その場に居合わせた俺は、間違いな気がした。
場違いであるような気がした。
ふっと少女の目がこちらを見上げる。
ようやく俺という存在に気がついたらしい。
涙に濡れた青とも言い難い目に、俺の姿が映り込んでいる。
声を掛ける一瞬を、俺は永遠に逃してしまった。
少女は何も言わない。
その目から、彼女の心情を窺い知ることは出来なかった。
一秒、二秒、と視線が絡む。
またひとつ、少女の瞳から雨が降った。
唯、俺達は茫洋に見つめ合っていた。
It`s rainy today
(そんなにも純粋な雫を、俺は知らない)