ワーム博士の家というのは、巨大な古代樹の幹を丸ごとくり抜いたような佇まいだった。
本日何度目とも知らぬ跳躍の後、着地した先には、古代樹林に不相応な木彫りの扉が在った。
ひと抱えもある桃色の花が、まるでランプのようにぼうっと光を灯してその扉を照らしている。
装飾品かと見上げて驚いた。
その花は本物で、花の中に蛍のような小虫が何匹も閉じ込められていたからだ。
ベンは平然と俺の脇を通り抜けて、扉についたノッカーを掴んで打ちつけた。
「おぉーい、先生ぇ! ただいまぁ! ……先生? せーんせ――――っ!」
正直しつこいくらいにベンはそんな声をあげ、扉をどんどんと鳴らす。
が、一向に返事はない。
俺とベンは顔を見合わせた。
俺は肩を竦めてみせる。
「留守か??」
「そ、そんなわけねーだろーう!」
ベンは軽く笑って、再びどんどんやり始めた。
「おぉーい、先生ってばぁ! ただいまぁ! ……先生? せーんせ―――――っ!?」
静寂が辺りを支配する中、俺とベンはまた顔を見合わせた。
俺は胡散臭げに相手の顔を睨んで言う。
「……本当に此処で合ってんのか??」
「合ってる! 断じてオジサンは間違ってないぞ!」
ベンは虚勢を張ってそんなことを答えるが、目が泳ぎ始めていた。
自信衰退を始めた相手が少し可哀相になって、俺は微かな憐れみを向けた。
「寝てんじゃねぇの、その先生ってのはよ」
俺のフォローにベンは笑顔を引き攣らせた。
「そ、そそそそんなわけねーだろって!」
ベンはまた扉に向き直った。
若干、冷や汗をかいていた。
ベンは息を吸い込んで言う。
「せんせ」
「煩い」
扉が開いた。
……否、開いたというか、明らかにベンにぶつけることを意図して弾かれた、と言う方が正しい。
憐れ、外側に開かれた扉によって、ベンは遥か下の足場に「うわああぁぁ……」という声と共に消えていった。
その光景を目の当たりにして、思わず声の主から一歩退いた。
声の主はそんなことお構いなしに大声で続ける。
「家の前でぎゃーすかぎゃーすか騒ぐんじゃないよ、この居候がッ……って、おやおやぁ?? 誰だいおまえさん?」
「ど、どうも……」
俺は、さらに一歩退きながら相手に言った。
声の主は小柄な老女だった。
ひょっとしたら、セピリアよりも小さいかもしれない。
老女は先程の剣幕から一変、酷く不思議そうに俺をコバルト色の目で凝視していた。
相手の被る毒々しい鮮やかな帽子に、目を白黒させる。
よく見ればキノコだった。
如何やってこの短時間で此処まで登ってきたのか、ベンが息を切らして俺の背後に現れた。
「ひでぇなあ先生! 何も突き落とすことないじゃないかぁ……」
心底まいったように愚痴を零す男は驚いたことに無傷だった。
こいつの身体は一体如何なっているのだろう。
そんなことを考えながら、俺は遥か下の足場の高低差を目測し、首を捻った。
興味深げな声に我に返った。
「ふうん、なるほどね。おまえさんがセピリアが言うところの『正しい』街の人間かい」
顔を上げると、老女がベンのことなど見もせずに、しげしげとこちらを眺めていた。
ベンが「無視かぁ!? 無視なのかぁ!?」と叫んでいるが、この老女、まるで気にしていない。
慌てて帽子を取り、名乗った。
「テオドアだ。まあ、俺の街が『正しい』って言えるほど狂ってないわけじゃねえんだが……。あなたがワーム博士か?」
「いかにも」
老女、もといワーム博士は面白がるようにコバルトの瞳を瞬かせた。
ふっと、かつての恩師を思い出す。
たった数年しか通わなかった魔術学校で、一番最初に教えられたのは礼儀だった。
懐かしい思い出の匂いと、目の前の穏やかな老女の姿が重なったような気がした。
俺は博士に深く頭を下げた。
「あなたの助手に多く助けられた。彼がいなければ、俺は無事では済まなかったと思う。あなたの助手と、彼を送られたあなたに……感謝する」
頭を下げているので相手の表情は窺えなかったものの、相手が驚いたように「おやおや……」と呟くのが聞こえた。
俺の背後でも「へぇッ!?」と息を飲む声がする。
「オジサンってば、いつの間に先生の助手に昇格したわけ!?」
大喜びするベンの声に顔を上げれば、ちょうど博士がベンに蹴りを入れるのが見えた。
がすっという音。
「お黙りッ! おまえは唯の居候だこの阿呆が! 調子乗んじゃないよ!」
「うひゃああぁぁぁ……」
再びベンが遥か下まで落下していった。
何度見ても、この光景には恐怖しか浮かばない。
ワーム博士は、顔を引き攣らせて突き落とし事件の全貌を眺めていた俺に、静かに向き直った。
身構えるが、相手の表情は優しかった。
「テオドア、と言ったか。あの如何しようもない奴が役に立って良かったよ。此処まで来るのは、骨が折れただろう。中に入りな」
俺を招くように、博士は開いた扉を示した。
頷くと、博士はにやっとした。
「礼儀正しくて驚いたよ、あたしァ。今時、珍しいことだ」
俺は扉をくぐりながら、肩を竦めてみせた。
「俺の親も恩師も、礼儀には煩くてな」
「くくく……それは良いことだね。礼儀のない小僧だったら、あの阿呆と一緒に突き落としてやるつもりだったから」
博士は悪戯っぽくそんなことを言った。
冗談だか本気だか、さっきのことを思い出すと図らずとも厳しかった躾に有り難みを覚える。
俺は改めて脱力した。
この博士のバイオレンスに日々鍛えられるベンに少し同情した。
俺は閉まる扉を振り返って溜め息をつく。
きっとまた、あの足場を登る羽目になってんだろうな、あの人。
この博士だけは敵に回したくないと本気で思った。
さて、複雑怪奇な廊下を抜けると目の前が吹き抜けになっていて、見れば螺旋階段が上下に続いていた。
如何やら、この古代樹の中央らしい。
下を見下ろすと、かなりの高さだった。
博士は階段に足を掛けながら言った。
「下はあたしの書庫と研究室。セピリア達は上にいるよ。エレベーターもあるにはあるんだが、……使わないことをお勧めするね」
俺は階段をのぼり始める相手に尋ねる。
「何故だ?」
見上げても見下ろしてもこの螺旋階段、終わりが見えない。
まあ、この樹の高さを考えれば、それも当然なのだが。
博士は言った。
「エレベーターは下降しかしない上、制御が利かないんだよ。おまえさんだって、わざわざエレベーターでジグモの巣まで行きたくないだろう?」
何やら話の雲行きが怪しい。
……ジグモって、何だ……?
生き物か??
悶々と考えていたら、上からお馴染みの声が降ってきた。
「駄目だよ、せんせー。だってテオはジグモが何なのか知らないんだよーう。ちんぷんかんぷんって顔してるよぉ?」
見上げた先に、あの白がいた。
セピリアがこちらに向かって手を振る。
「やっほー☆ 遅かったねテオ。『知恵の樹』へようこそ!」
俺は思わず顔を綻ばせた。
そいつの姿を見ただけで、酷く安堵した。
「遅いっつうなら、てめぇも『歪時廊』動かすの遅ぇよ。危うく、あの大臣に捕まりかけたんだぞ?」
「えー?」
セピリアは不満そうに上の階から身を乗り出した。
「そんなわけないじゃん。僕、ちゃんときっちりかっちり三十分後に『歪時廊』動かしたんだかんね! 僕、時間にはウルサイんだから。ほら、時計だって手放したことないし!」
階段をのぼりながら呆れた。
「その時計、壊れてんじゃねえかよ」
「あう……」
痛いところを突かれたのか、セピリアは恨みがましい目で黙った。
まるで掛け布か何かのように、上の階の手すりにへばりついて身を乗り出している様は、酷く危なっかしい。
博士の笑い声が吹き抜けに反響した。
「屁理屈の塊みたいな白兎が言い負かされるのを、あたしァ初めて見たよ。あたしでもこの子には手を焼くのにねぇ、テオドア」
博士の楽しげな声にぶうたれるセピリアの表情は可笑しくて、俺も聞えよがしに相槌を打った。
「だろうな。こいつ、いっつも人の話を聞かねぇし。苦労してるだろう博士」
上の階に到着した途端、セピリアがこちらに駆け寄ってきた。
セピリアは自信満々に言った。
「屁理屈だって理屈だもん、せんせー。ジグモを知らないような、ジョーシキのないテオドアには言われたくありませぇん」
先程まで下にいたから見上げなければならなかったのだが、今はいつも通り目線の下にこいつがいる。
この目線に安心した俺は、セピリアのウサ耳フードを軽くぺしぺしして確かめながら聞いた。
「だから、ジグモって何だよ」
「地下を飛んでる雲だよ」
子供扱いされたセピリアは、嫌々して博士の後ろに隠れながら答えた。
俺は眉を潜めた。
「雲が地下を飛ぶなんて、おかしくねぇか?」
セピリアは素晴らしく無邪気なていで、にっこりした。
「うわあ。テオ、超非常識☆」
「撃つぞてめぇ」
「せんせー! 暴力的な人がいますう!」
セピリアがきゃーきゃー笑いながら、ウサフードを庇って俺から逃げ出した。
くそ、捕まえ損ねた。
奥の部屋に消える白兎の背中を見ていると、博士が聞いてきた。
「おまえさんとこの雲は、地下を飛ばないのかい??」
俺は、セピリアより背の低い老女を見る。
「ああ、俺の世界では、雲は空を飛ぶもんだ。だってそうだろ? 雲って水蒸気だし……」
「じゃあ、テオドアが想像している雲と、あたしらの雲は別ものさね」
博士は納得したように苦笑いした。
首を傾げていると、博士は扉をくぐりながら丁寧に説明してくれた。
「ジグモってのは、地下を飛ぶ生き物だ。目は見えないが、肉食だから牙がある。凶暴で、縄張りに入ったが最後……パクリさ。一生会わないことを祈るんだね」
俺はちらりと遥か下へと続く螺旋階段を一瞥した。
階段は視力の限界を超えると、闇へ飲まれていった。
ひゅううと下から風鳴りがする。
それは見知らぬ化け物が唸っているような音で、何となく背筋が寒くなった。
其処から無理矢理目を逸らし、俺は博士の背に従った。
扉をくぐった瞬間、誰かの飛び蹴りを食らった。
この何の手加減もない蹴りは、あの赤猫に他ならない。
床にうずくまって、俺は叫んだ。
「痛ぇなッ! 何すんだテメェッ!」
ちょうど床に着地を決めたグレイは、びしぃっと俺に人差し指を突きつけた。
「何すんだはアンタの方だロ、テオドア・デュ・ヴィンテージ! オレのことさっき突き落としやがっただろーがヨ!」
「あれは不可抗力だ! むしろ感謝しろ、グレイ・ハッシュフォード!」
「大体アンタはいつも無計画過ぎるんだヨ!」
「無謀なてめぇより、よっぽどマシだ!」
「煩いよ馬鹿ふたり! 人ん家でぎゃあぎゃあ騒ぐな!」
「「あ痛っ!」」
口論してたら博士の鉄拳を食らった。
とても痛かった。
俺達は全く同じ格好(つまりは頭を抱えて床にしゃがみ込む図)で静かになった。
涙目で小柄な博士を見上げると、博士は苦笑しながら言う。
「それで? 再会した感想は?」
俺はふっと笑ってグレイを見た。
「サイアクだ」
そう言いながら相手に右手を差し出せば、グレイもにやりとした。
「お互い様だロ、それ。そっくりそのままアンタに返すヨ」
グレイの右手をしっかり掴んで立ち上がると、セピリアが満足気ににっこりしているのが見えた。
いつの間にか、ベンも居間のテーブルの上に行儀悪く腰掛けている。
ベンは再会が済むのを見て取って、ぱんと両手を打ち合わせて言った。
「そんじゃ、感動の再会ついでに本題にでも入ろうか! え? 本題っていう名の夕食だよ?? オジサン、腹ぺこなんだ」
俺もグレイもセピリアも、珍しく博士もその意見に賛成した。
安堵の後にやってくるのは、いつだって空腹だ。
同意に顔を見合わせて、俺達は笑った。
この大変を百乗したような状況で、ようやく休息を取れるような気がした。
もちろん、束の間の休息なれど。