ぽっかりとあいた奈落のような口を進めば、ぴちょんぴちょんと水が滴る規則的な音が微かに聞こえた。

僅かに口元を覆う。

此処は如何したって好きになれない。

不衛生で、湿った空気に満たされている。

 

この空気には生き物の匂いがしない。

 

するのは間近に迫った死と、絶望の臭いだけだ。

 

 

ちょろちょろと駆け回るネズミを無視し、俺は地下牢を走った。

見覚えのある赤髪が目の端にちらついたのだ。

 

俺は、一番奥の牢の鉄格子に飛びついた。

 

 

 

「グレイッ!」

 

 

 

はあはあと息をつきながら黒光りする鉄格子を両手で握り締めていると、相手の肩が微かに動いたような気がした。

俺はまた叫ぶ。

 

 

 

「グレイ! なあッ!」

 

 

 

両手で鉄格子を揺らすと、ぐったりと項垂れていたグレイがゆっくりと顔を上げた。

 

 

 

「……やっと来たのかイ、テオドア君……。全く、……来るなら早く来いッつうノ……」

 

 

 

いつも通りに文句を言って、グレイは弱々しく笑った。

それがこいつなりの強がりだったのかもしれない。

殴られたのか、左の頬が腫れている。

 

俺はアーマーを脱ぎ捨てて、鉄格子の扉に針金を差し込んだ。

 

 

 

「今出す!」

 

 

 

がちゃりと錠が外れる音がして、錆ついた扉が開いた。

俺は相手に走り寄った。

 

 

 

「大丈夫か!?」

 

 

 

グレイは前髪をかき上げて、安堵したように言った。

 

 

 

「これが大丈夫に見えるってんなら、眼医者にでも行った方が良イ。酷いもんだヨ。いや、何が酷いってこの二日間、メシ抜きってのがサイアクだ。オレを何だと思ってやがル」

 

 

 

俺はやっと笑うことができた。

 

 

 

「そんだけ悪態つけりゃ、問題ねえな」

 

 

 

ライフポットで傷口を洗ってやると、グレイはようやく身を起こした。

グレイは前髪に隠れた左目を押さえて溜め息をつく。

 

 

 

「殴られた時、眼帯失くしちまっタ。残念だナ……。それはさておき、何でアンタこの国に戻って来てんだヨ? オレの話聞いてたよナ? 聞いてなかったのカ? アンタまじで馬鹿なのか、こんなところに戻って来テ? 何考えてんだヨ??」

 

 

 

まるで機関銃(マシンガン)のような言葉の群れに、俺は引き攣った笑みを浮かべた。

 

 

 

「助けてもらっといて、ご挨拶だなテメェ……」

 

 

 

グレイが俺の胸倉を掴んだ。

俺は驚く。

相手の顔が今までにないほど、真剣だったからだ。

 

グレイは隻眼をギラつかせ、低い声で言った。

 

 

 

「……良いか、よく聞けテオドア・デュ・ヴィンテージ。アンタ今どれだけ危険な場所にいるかわかってんのか? 戻ってくる不利益(リスク)と利益(アドバンテージ)が釣り合ってねえんだよ。オレを助けになんて、わざわざ……わざわざアンタは、さ……。何で逃げねぇんだよ、馬っ鹿じゃねぇの……わっけわかんね……。もっと自分を大事にしなよ……」

 

 

 

ずるずると手を離して、グレイは顔を歪めた。

 

 

 

「これじゃまるで……オレが馬鹿みたいじゃん。カッコ悪ィよ……」

 

 

 

自分自身に腹を立てているのか、グレイは泣きそうな声でそう呟いた。

こいつとしてはそう、俺を逃がし、あの店を守って此処に来たつもりだったんだろう。

それがこいつのプライドだった。

いつだって何の関係もないような振りをして、陰では一番助けてくれる、こいつの高い高いプライドが。

 

俺はふーっと長く息をついて、そして……ライフポットを相手の頭からぶっかけた。

 

 

 

「ぶわッ!? 何しやがんダ、テメェ!」

 

 

 

傷薬にむせながら、グレイが水滴を飛ばして顔を上げる。

わけがわからないと言いたげな顔だった。

 

取り合わず、空になった瓶をぽいと捨てて、平然と言った。

 

 

 

「勘違いするな。これは昔の大騒動の借りを返しただけだ。これでお互い様(チャラ)だろ」

 

 

「そんなの……」

 

 

「不満ならツケとけよ。それで、後で返せ」

 

 

 

意地悪く宣言した後、口調を和らげた。

 

 

 

「それが、仲間……だろ」

 

 

 

グレイは仰天したように目をまん丸くした。

信じられない、という顔だ。

 

そして、髪からぽたぽたと水滴を垂らしたまま吹き出す。

 

 

 

「っあはは! ……くくく……そうだな、違いない」

 

 

 

くつくつと抑えきれない笑いを漏らし、グレイは微かに手を持ち上げた。

心得たもので、俺も片手を上げる。

 

俺の右手とグレイの右手が打ち合わさって、小気味良い音が牢に響いた。

 

心が軽くなるような、そんな音だった。

 

俺は微笑む。

俺達には、それで充分だったに違いない。

 

鉄格子から出ると、俺は兵士の服を脱ぎ捨て、帽子をしっかりと被った。

 

 

 

「さっさとずらかるぞ」

 

 

「はいヨ、テオドア君」

 

 

 

グレイも自分の荷物を担いで応じる。

と、赤猫はこちらを見てにんまりとした。

 

 

 

「いやー、しかしまさかテオドア君からあんな台詞が聞けちゃうとはネ。長生きはするものだヨ。如何いった心境の変化だイ??」

 

 

 

仲間、と言ったことを少し後悔した。

 

 

 

「忘れろ!」

 

 

 

俺は帽子を押さえて吐き捨てた。

勿論、相手はにやにや笑いを引っ込めなかったけれど。

 

こりゃ、当分これでからかわれるな。

 

俺はげんなりするのだった。

後悔は決して先に立ってくれない。

 

 

 

 

 

階段に足を掛けたところで、グレイが言う。

 

 

 

「ところで、何か秘策でもあるのカ? 逃げるったって、この国からは出られないゼ??」

 

 

 

俺は立ち止まって答えた。

 

 

 

「セピリアが『歪時廊』で、俺達の逃亡に手を貸してくれる」

 

 

「あの子カ……なかなか無茶苦茶なことしてくれるんだネ、我らが白兎君は」

 

 

 

グレイは苦笑した。

 

そしてそのまま階段をのぼりながら言う。

 

 

 

「アンタは白兎を国に引き渡そーとか思わなかったんだナ」

 

 

「冗談」

 

 

 

相手の背に続きながら、嫌な顔をして肩を竦めた。

 

 

 

「誰が師匠(せんせい)の時の二の舞なんかするか。俺は国のお使いじゃねえ」

 

 

 

俺の言葉にグレイは右目を細め、喉の奥で笑った。

 

 

 

「……賢明な判断だったネ、テオドア君」

 

 

「如何いう意味だ??」

 

 

 

尋ねるのと、俺達が建物から出るのはほぼ同時だった。

 

グレイはその一瞬の間に大鎌を組み立て、その刃を外で待ち構えていた兵士達に向けて言う。

 

 

 

「これがその答えサ」

 

 

 

俺は息を飲んだ。

圧倒的な数の兵士達に、建物が取り囲まれていた。

 

グレイが隻眼を光らせ、兵士達がこれ以上近づかないように鎌で威嚇している。

 

動揺しているとは言え、俺も右手に青い銃、左手に黒い銃を構え、小声でグレイに尋ねた。

 

 

 

「何が起こってる!? ラストは俺に約束したんだぞ!? 俺が白兎を連れて来るまで、俺に危害は加えない……仮初めの自由を与えると!」

 

 

 

グレイは俺と背中合わせになって溜め息混じりに笑った。

 

 

 

「だから、それがそもそも破綻してんのサ。そのラストという男、アンタとの約束を守る気なんかさらさらなイ」

 

 

 

グレイは飛び掛かってくる兵士達を薙ぎ払うと、俺の黒い上着の襟首を掴んで詠唱した。

 

 

 

「『竜巻よ(テンペスト)』」

 

 

 

俺とグレイの足元で突風が巻き起こった。

風圧で俺達の身体が浮き上がる。

 

竜巻によって周りの兵士達の陣形が崩れ、俺達は高く高く上空に逃げる。

 

グレイが指を振ると竜巻が消失し、俺達の足が建物の上についた。

グレイに引っ張り上げられていた襟首を直しながらゲホゲホしていると、グレイは淡々と言った。

 

 

 

「アンタが城に連れてかれたって聞いて、オレも此処に忍び込んだのサ。その時に、ラストという男が話し込んでいるのを偶然聞いたんダ」