不相応を望んだ強欲に罰を
9.豚に歯車
「イデデデデ……もっと優しく治療してくれよグレイ」
左腕をぐりぐりと消毒される俺は、青年に向かって文句を言った。
グレイは我関せず、といった顔で赤くなった綿をぽいと捨てる。
「怪我人ならもっと大人しくしたまえヨ、テオドア君。鷲の爪が刺さらずに掠っただけだから、これで済んだんダ。本当ならボロ人形みたいに腕が取れてるところだヨ。セピリア、包帯取ってくレ」
「はいよ、グレイ」
セピリアがグレイに包帯を渡すところを眺めながら、むすっとグレイに言った。
「名誉の負傷だろ」
グレイは苦笑した。
「はいはいその通リ。さ、治療は終わりっト」
「いってえ!」
ぱーんと包帯を巻かれた腕に喝を入れられ、涙目でグレイを睨みつけた。
……こいつ吊るす、いつか吊るす。
ぜってー吊るす。
「大変ですテオドアさんっ!」
ばたばたと騒がしい音がして、テントの幕を手で払って白いハツカネズミが走り込んできた。
何やらとても慌てているようで、赤い目がいつもより赤く光っている。
セピリアが「あー!」と笑顔で言った。
「ハンスちゃん、ハンスちゃんの鞍のお陰で優勝したよ。そいでね、ハンスちゃんの鞍ってば摩擦で焼け焦げちゃったことに怒って、鷲さんを連れて走ってったの。すっげー面白かった!」
俺も立ち上がり、ハンスに向き直って言う。
「大変って鞍のことか? ……何だか悪かったな。折角くれたものだったのに逃がしちまって……」
「いえ! いえいえいえ、鞍は如何でも良いんです! 違うんです、すみません……でも」
あわあわするハンスにグレイは何かを感じ取ったのか、鋭く言った。
「一体何事ダ、ハンスさん?」
グレイに尋ねられ、ハンスは深呼吸してあわあわするのをやめた。
「主催者が逃げました」
「何だって!?」
思わず大声を出して、一歩踏み込む。
ハンスはしゅんと耳を垂らして繰り返した。
「主催者が逃げたんです。優勝賞品を持って」
「僕の歯車!」
セピリアも跳び上がって、悲痛な声をあげた。
グレイは早々に荷物を担いで、テントの入り口で振り返る。
「どっちに逃げていったんだイ!? 急げばまだ追いつくはずダ」
「あっ、あっ、えっと……」
ハンスが目を白黒させていると、グレイの声が飛ぶ。
「早ク! 逃げられちまうゾ!」
ハンスは跳び上がってすぐさま答えた。
「レース会場を抜けて森へ! すみません!」
「ありがとう」
グレイは礼を述べて、風のようにテントを出ていった。
セピリアも木箱から飛び降りて言う。
「ハンスちゃん、ちゃんと『歪み(ここ)』を『正しく』したら、また遊びに来るね。ゼッタイまた会えるから……だから、僕らのこと忘れないで」
セピリアがグレイに続く。
わけがわからないという表情を浮かべるハンスに、俺は言った。
「説明してる時間がねぇんだ。でも、あんたのお陰で助かった。たくさん助けられたんだ。……出会えて良かったよ、ハンス」
「テオドアさん……」
「チャールズのこと、よろしく頼む。あんな勇敢なドードーは、優しいあんたに相応しい」
早口で言いながらテントの幕に手を掛けると、ふわりとハンスが両手で俺の片手を包んだ。
驚いて振り返れば、相手は言った。
「…また会えるでしょうか?」
赤い目は心做しか潤んでいた。
彼も感じ取ったのだろうか。
俺達が異端な存在であることを。
俺は微笑んだ。
「必ず」
短く答えれば、ハンスは鼻をすすり上げた。
「あなたがたの行く先に幸運を、テオドアさん」
ハンスの手が離れ、俺は夕闇が香る外へと飛び出した。
「やっと追いついたぞ……観念しろ!」
脇腹を押さえて喘ぎながら、俺は数メートル先の背中に銃を突きつけていた。
暗い森を駆け抜け、最初にこの地に降り立った広場のような草原で、あの山高帽子を見つけたのだ。
ふくふくした赤ん坊は、手に光り輝く歯車を持ったまま振り返る。
「くっ……何て足の速いおにーさんでちゅか……!」
「返してよー僕の歯車ぁー! 優勝したらくれる約束でしょー!」
俺の左側で、セピリアがぴょんぴょん跳ねる。
鈴の音がまるで相手を追い詰めるかのように草原に響いた。
赤ん坊は自身の背に歯車を隠して、後退りした。
「い、嫌でちゅ。これはぼくちゃんのものでちゅ。余所者……特に白兎なんかに渡ちまちぇん!」
「ケチぃ!」
セピリアが憤慨した。
俺の右側でグレイが溜め息をつく。
酷く呆れている様子だった。
「往生際が悪いねェ……何処までイカサマにイカサマを重ねるつもりなんだイ」
俺は銃を持ち上げ、セピリアは紅い刀を構え、グレイは大鎌を肩に担いで言った。
その声は、図らずとも綺麗に重なる。
「「「いい加減にしろよ」」」
「……ぃ……ワタサナイ……」
ふるふると赤ん坊が震えた。
森からは虫の羽音はおろか、葉が揺れる音すらしない。
生きた気配がない。
木々がまるで何かに気づかれるのを恐れているかのように、停止していた。
気持ちが悪いほどの低い声で、赤ん坊は言った。
「此処でハぼクチャンがルーるダ……歯車ハ渡サナイ……渡サナイワタサナイワタシテナルモノカ! ウオオォォォォォォォ!」
雄叫びと共に、赤ん坊の身体がぼこりと膨れ上がった。
ぼこりぼこりとみるみるうちに赤ん坊の体長は四メートルを軽く超え、びりびりと赤いシャツが、ベルトズボンが破れる音が響く。
みしりと鼻が伸びる。
ばきばきと牙が生える。
重量で地面に楔型の蹄が食い込む。
目の前にいるのはもはや赤ん坊などではなく、緑色の豚の怪物だった。
「ふん、此処も此処で歪みまくりかよォ」
動揺する俺とグレイとは対照的に、セピリアはこんなことは日常茶飯事だと言わんばかりに笑っていた。
さすがに慣れたもので一歩たりとも否、一ミリたりとも動かずに、目の前の怪物を見上げている。
ぎょろぎょろと血走った金色の目を光らせて、豚は赤ん坊のような奇声をあげた。
「オギャアアアアォォォオウウウ!!!」
「ぐうっ……何て声だ……」
呻いて俺は両耳を塞いだ。
見れば、グレイとセピリアも俺と同じような格好をして鼓膜を守っていた。
と、怪物が大きく口を開けて地面に突っ込んできた。
三連に生えた歯が地盤ごと草原を削り、飲み込んでいく。
それは竜巻がものを飲み込んで解体していく様子に似ていた。
脇に転がって避けると、怪物は俺達の間をすり抜け、周りの森までうつ伏せのまま滑っていった。
「恐ろしい暴食ぶりだねェ」
グレイが引き攣った顔で見る先に、木々を薙ぎ倒しながら立ち上がる豚がいた。
口に咥えた木の幹を、ビスケットか何かのように噛み砕いている。
バキバキと数本の木が怪物の腹の中に消えた。
豚が再び俺達に向き直って雄叫びをあげた。
音波が輪のように広がり、周りの森が振動する。
発狂しそうな音量だった。
そのあまりの煩さに、俺は悲鳴をあげた。
「ああああ煩え――――ッッッ! 如何にかしろよセピリア!」
セピリアも厭わしそうににウサ耳を両手で塞ぎながら、鋭い目で怪物を仰ぎ見た。
こいつの心配は如何やら別のところにあるようだった。
煌めく小さな光を凝視して、セピリアは顔を歪ませる。
「くっ、歯車……歯車が……」
立ち上がった怪物の前脚にその何かはキラリと輝いていた。
怪物もそれに気づいたのか、ぎょろりと眼球を動かしてそれを見、そして。
ばくんっ
「っ……食いやがった」
大きな口に砂粒のような歯車が消えるのは一瞬だった。
あまりに呆気ない。