まるで電撃が走ったかように耳から脳へその音が伝達された直後、俺は手綱を捌いて、ドードーの脇腹を軽く蹴っていた。
黄緑のドードーは鮮やかなスピードで走り出し、あっという間に第一コーナーまで到達する。
客の声と後ろから迫る羽音に混じって、グレイの解説が聴こえた。
「さあ、始まりましタ! 現在トップはテオドア&チャールズ、その後ろに迫るはイーディスでス。少し遅れてビル・カーター、ポー、ロリーナ。ロビンソン・ダックワースは出遅れたようでス。おおっと、如何しタ!? ビルが一気に加速して、イーディスを追い越しましタ!」
コーナーを曲がった途端、後ろから来た風にドードーがよろけた。
ドードーを立て直しながら、左側に出たカササギを見る。
その翼は風の衣を纏って薄青く輝いていた。
こいつ、魔法を……。
「テオドア君、右だ!」
耳にグレイの警告が届いた。
手綱を捌いた瞬間、右側から巨大な影が前方を横切っていった。
鷲だ。
カササギに気を取られていて、鷲の体当たりをまともに食らうところだったのだ。
鷲が羽搏いて、第二コーナーから加速する。
差を詰めようと身を低めると、渦巻く風にドードーの足が引っ掛かった。
「クワッ」
ドードーが悲しげに鳴いた。
足を捉えた風は一瞬にしてドードーを減速させる。
その数秒の間に鷲は、完全に俺の前に出た。
俺は横に並んだカササギを睨む。
カササギが笑ったような気がした。
「そろそろイーディスがトンネルへと差し掛かるようでス。……汚い手使いやがっテ……おっと失礼。その後ろをテオドア&チャールズ、ビルが追いまス。先程の突風を利用してポーが加速、すぐ後ろまで迫り、遅れてロリーナ、ロビンソンが続きましタ。おお! イーディス、テオドア、ビルがトンネルに入りましタ!」
直線状のトンネルに入った直後、前方の鷲がくるりとこちらを振り向いた。
本能レベルの嫌な予感が脳を貫いた。
「チャールズ! 加速しろ!」
俺の声がトンネル内に反響した瞬間、辺りに爆音が轟いた。
加速していたお陰で、紅蓮の炎に巻き込まれる前に走り抜けることができたものの、爆発の衝撃で耳が数秒間おかしくなった。
見れば、俺のすぐ後ろについていたカササギが翼を焦がされて落ちていく。
それは酷く恐ろしい光景だった。
相手の目の奥に、絶望を見た。
「あのヤロ……ッ」
前を向いて鷲の背を睨んだ途端に爆風が背中を押した。
ドードーが一気に加速し、トンネルを抜けたと同時に鷲と並んだ。
鷲の体当たりをかわし、俺は相手に遣り返す。
拳が相手に二、三発入るくらいでは、腹の中でふつふつと込み上げる怒りは治まってはくれなかった。
一進一退、つかず離れずの距離で俺達はそのまま第三コーナーへ奔走する。
第三コーナーに入ると、いつの間に後ろまで迫っていたのだろう、ハトが俺と鷲を追い越していった。
目の隅にアヒルとカナリアが映る。
如何やら鷲にだけ気を配っていれば良い、というわけにはいかなくなったらしい。
グレイの声がレース場に響く。
「トンネル内の爆発で、ビルは再起不能。爆風に助けられたポーが現在トップでス。そしてその後ろにイーディス、ロリーナ、テオドア、ロビンソン! 白熱したレースを繰り広げておりまス! ほとんど横並びで涙の池に突入する模様」
眼前にきらきら光る水面が現れた。
グレイの解説によると池のようだが、なかなか横幅があるし、深さもあるようだ。
ドードーが水に飛び込むと、水飛沫が硝子のような輝きと共に散った。
日光を反射して虹色を帯びるそれらを見て、場に合わず綺麗だと思った。
と、俺は別の水飛沫を被った。
アヒルだ。
まるで水面を光速で走るように進む。
図らずとも、俺の口から呆けた声が漏れた。
「速っ……」
「速イ! ロビンソン・ダックワース速イ! あっという間にトップに躍り出ましタ! その後ろを上空からポー、イーディス、ロリーナ、水上からテオドア&チャールズが追いまス。……! テオドア君、気をつけロ! あいつ何かやらかす気だゾ!」
グレイの大声にはっと前を見ると、向こう岸に上がったアヒルが水面に片羽をつけて、水を跳ね上げるところだった。
次の瞬間。
ゴオォォォォ
池の水が立ち上がった。
まるで津波の如く、巨大な青の壁を形成し始める。
太陽を遮って暗い影が俺達に落ちた。
「おいおい、嘘だろ……」
「クワワワワワ」
顔を引き攣らせるなか、ドードーはオロオロと首を振って逃げ場を探している。
ドードーの足は完全に、水上に停止していた。
見上げると、上空の鳥達だけを水の壁はあっさり通していた。
水の壁に一瞬だけ丸く穴が開いて、鳥達は其処を通過したのだ。
その穴はすぐに塞がり、圧倒的な重量を誇る青の壁が迫る。
そびえ立つ強固なそれは、巨人を思わせた。
俺達を叩き潰しにやってくる。
スピーカーから、口汚く罵るグレイの声と観客達の悲鳴が聴こえた。
(如何する)
青い壁に映り込む自分の影に尋ねた。
吸い込む空気に湿気が混じった。
波立つ水面にドードーがゆらゆらと揺れる。
(如何すれば、良い……?)
不意に、水に映る自分の姿がくにゃりと変化した。
白い、兎だ。
紅の刀を振り翳し、そいつは言った。
「『切り裂け(スラッシュ)』」
ずばりと水の壁が裂けた。
分厚い水が綺麗にVの字型に切り取られ、向こうの景色が見える。
何が起こったのかわからないまま振り返れば、背後で水飛沫をあげて池に着水するセピリアの姿が見えた。
後ろから飛び込んできたこいつが進路を開いてくれたらしい。
グレイが言っていた妨害対策とは、こいつのことだったのだ。
水を飲んで咳込みながら、セピリアは前を指差して怒鳴った。
「止まるな、進み続けろッ! 迷う前に飛び込めバカ! 行けぇ――――ッ!!!」
はっとして、ドードーの脇腹を蹴った。
左右に分かたれた水の壁が崩れる前に、黄緑色の弾丸は切り取られた空間を走り抜け、向こう岸に上がっていた。
後ろでもの凄い量の水が崩れる轟音が響いていたが、それを無視してドードーを走らせ続けた。
遥か向こうに鳥達の背が見える。
「チャールズ!」
吼えれば、忠実な黄緑のドードーは高らかに鳴いて速度を上げた。
まだ間に合う。
まだ追いつける。
まだ、終わっちゃいないのだ。
スピーカーから客の歓声が聴こえた。
グレイが叫ぶ。
「テオドアが涙の池を抜けタ! 崩れてきた水の壁に飲まれ、ロビンソン・ダックワースは再起不能! さあ、レースも終盤でス。現在トップはイーディス、僅差でポーが、少し遅れてロリーナ、テオドア&チャールズが追いまス。おお! テオドアがロリーナに追いついタアァァァっ!」
俺とカナリアが並んだ。
カナリアは焦ったように翼を動かして、何かを詠唱する。
俺を掠めて雷が地面に落ちた。
「おわっ!? 危ねぇ……!」
まるで雨のように細い電撃が俺を狙って降ってくる。
地面に落下するたびに、バチバチと嫌な閃光が足元に散った。
すぐ先の上空を飛んでいたハトが、雷の直撃を食らって落下した。
ぶすぶすと黒い煙を上げるハトを避けた途端、カナリアとハトは縺れるように衝突し、芝に叩きつけられた。
自業自得だったが、その様子は少し哀れだった。
電撃の雨が止む。
芝にのびている鳥達を横目で見て、「はっ」という掛け声と共にドードーを駆った。
流れるレース場の景色の中で、グレイの声が飛んだ。
「雷に打たれポー、その巻き添えを食いロリーナが共に再起不能。残るはトップを行くイーディスと、その後を追うテオドア&チャールズでス! そして………テオドアがイーディスの後ろにつきましタ!」
グレイの解説に、鷲がちらりと後ろの俺を見た。
俺は皮肉な笑みを浮かべてやる。
「よォ。てめぇんとこの仲間、全員消えたぜ? ……残るはてめぇだけだ」
鷲はサングラスを煌めかせ、翼を振った。
例の如く、俺が加速すると後ろで爆音がして近くの木々が薙ぎ倒された。
遅れてくる爆風に背中を押され、俺は鷲と並ぶ。
観客の興奮した騒めきが聴こえた。
また鷲が翼を振った。
手綱を捌くと、捕らえ損ねた俺の代わりにレース場の芝や柵が吹き飛ばされる。
「やること為すこと、遅ぇんだよ!」
三度目の爆発をかわしながら凶悪な相手に言えば、相手はぐうっと俺から距離を取った。
何のつもりだ??
「イーディスとテオドアが最終コーナーに入りましタ。残るはゴール前の直線コースだけでス!」
グレイの声を聞き流しながら横の鷲を睨みつけていると、鷲が勢いをつけて急接近してきた。
鋭い鉤爪が光るのを見た。
「テオドア君、避けろ!」
素晴らしい反応速度で警告を発するグレイの声が聞こえたが、次の瞬間、レースの白い柵にドードーの羽がこすった。
いつの間にか柵ぎりぎりを走っていたのだ。
俺とチャールズは、レースの白い柵と巨大な鷲に挟み込まれるような形で疾走していた。
これでは鷲をかわすことはおろか、ろくに走る軌道を変えることすらできない。
ドードーの左脇腹を狙う凶器に、思わず腕が出る。
「くっ……ああぁあああぁぁあ!!!」
黒いコートの上腕部が裂けた。
緑の芝を背景に腕からほとばしる赤が、酷く鮮やかに見えた。
ドードーは傷つかなかったものの、体当たりを食らった直後、がりがりという嫌な音を聞いた。
ドードーの鞍が柵をこすっている。
鷲の爪が鞍の左側に刺さって、ドードーを右の柵に押し付けているのだ。
走る速度と相まって、鞍の右側から火花が散った。
鞍と柵が摩擦熱を放っているのだった。
グレイの叫び声が聞こえた気がする。
「鞍を切り離せ! ゴールポストにぶつかるぞっ!」
前方を見ればゴールの文字と、それを支える二本のポストに行き着いた。
このままではゴールはおろか、無事では済まない。
俺はがりがりとこすれて赤く熱を持ち始めた鞍の接合部に、ナイフの刃を当てた。
揺れている上に上質な革なのか、つるつる滑ってなかなか切れてくれない。
否、滑るのは自分の血の所為かもしれない。
ぽたぽたと鞍に赤い染みをつける血が、とても邪魔な存在だった。
もうゴールポストは目と鼻の先だ。
焦りのために痛みすら感じない左腕を動かし、俺は渾身の力で鞍を繋ぐ綱を断ち切った。
「いっけえぇぇぇ――――――ッ!」
手綱を支えに、俺は大声をあげながら鞍を蹴り飛ばした。
鞍に爪が刺さったままの鷲はまともに重い鞍の一撃を受け、まるでバトミントン羽のように吹っ飛んでいった。
俺を乗せたドードーがゴールをくぐるのと、鞍に縺れた鷲がゴールポストに直撃してペシャンコになるのはほぼ同時だった。
勢い余って転倒するドードーの背から放り出され、俺は柔らかい芝に大の字に転がる。
観客が水を打ったように静まり返った。
「ごっ……ゴ―――――ルッ! テオドア&チャールズがゴールを決めましタぁぁあ!」
グレイの声を合図とするかのように、空に轟く喜びの声と割れんばかりの拍手がレース会場を包んだ。
俺は肩で息をしながら笑った。
目の前に広がる快晴の空に、ゴールの花火が幾つも打ち上がるのが見えたからだ。
グレイの実況解説は観客の盛り上がりにかき消される。
煩いくらいの歓声とお祭り騒ぎのなか、さくさくと芝生を歩く音が聞こえた。
仰向けに転がる俺の目の端で、誰かが俺の帽子を芝生から拾い上げるのが見えた。
「全く、……無茶するんだからキミは」
そんな声が降ってきて、日を遮って誰かの影が俺に落ちた。
白いウサフードの鈴がひとつ、ちりんと鳴った。
セピリアだった。
俺は笑う。
「如何だ、優勝してやったぞ……ザマーミロ」
息も絶え絶えに言えば、ずぶ濡れの白兎もにっこりして俺に帽子を差し出した。
「かぁっこよかったよ、テオ」
「……さんきゅ」
帽子を受け取って、そう呟いた。
帽子を拾ってくれたことと、池で進路を開いてくれたことへの……感謝だった。
俺の右手を掴んで引っ張り起こしてくれたセピリアは、酷く上機嫌でけらけら笑った。
「ねーねー、見てあれ。傑作けっさく。鞍を食らってクーラクラだ、あの鷲さん」
セピリアの示す方を見れば、鷲は鞍に突き刺さったままのびていた。
と、ひひーんという鳴き声と共に、鞍がぴょこりと立ち上がった。
怒れる競走馬の如く、鞍は鷲を引きずったまま土煙を上げてレース場を走り回る。
俺は目を丸くして、セピリアを見下ろした。
「本当にひとりでに走るんだな、あれ」
セピリアも嬉しそうに俺を見上げる。
「言ったじゃん。エドワード・ヘンリー製は超凄いって」
「最っ高」
俺は吹き出した。
セピリアもあはははと笑う。
鞍に引きずられた鷲が遥か向こうの森に消えるまで、俺とセピリアは笑い合っていた。