振り返らずに走れ

    誇りと誉が欲しいなら

 

 

8.混沌渦巻くレースを抜ける

 

 

夢を見た。

 

それが夢であることを俺は知っていた。

 

白い部屋で、白いピアノを誰かが弾いていた。

俺は突っ立ったまま、細い指が鍵盤を叩いていくのを見る。

 

嗚呼、何処かで聴いた曲だ。

 

 

何処で、聴いた?

 

 

 

(『歪時廊』に飲み込まれる時)

 

 

 

このピアノの音が、聴こえたような気がしたんだ。

 

俺は口を開く。

 

夢の誰かに尋ねる。

 

 

 

(誰なんだ?)

 

 

 

口を開いて発音したはずなのに、声が出なかった。

 

俺は口をあっさり閉じる。

ほら見ろ、やっぱり夢じゃねえか。

 

無彩色な部屋にピアノの音だけが響くのを、俺は唯々聴いていた。

開いた窓で、ピアノの音に合わせるようにカーテンが風に揺れている。

 

なんて現実味のない、夢。

 

横目で窓の外のふたつの月を眺めた。

黒と白の月がすれ違って、急速に地平線に沈んでゆくのを目で追う。

 

雨のように、星が降る。

 

 

それはまるで世界の終わりのような、美しくも絶望的な風景だった。

 

 

ピアノの音が止んだのでそちらに目を遣ると、誰かは糸が切れたように停止していた。

両の手が何の意図もなく、鍵盤に投げ出されている。

 

不意にそいつが泣いていることに気づいた。

 

 

 

(……何で泣いてんだよ)

 

 

 

俺は言う。

……声は出ないけれど。

 

 

 

(泣くんじゃねえよ……)

 

 

 

何故だか落ち着かない自分がいた。

俺の存在など見えていないかのように独りで泣く誰かが、途轍もなく俺を焦らせていた。

 

早く泣き止ませなければ……いけない気がした。

 

夢だとわかっていたはずなのに、俺はそのわけのわからない誰かにひとつの人格を見出していた。

 

俺は言う。

 

 

 

(泣くな)

 

 

 

相手には届かない。

 

俺は言う。

 

 

 

(泣くな)

 

 

 

相手の頬を伝う真珠が、虹色に輝いて鍵盤に落ちた。

 

思わず叫んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「独りで泣いてんじゃ……ッ」

 

 

 

自分の大声で飛び起きて、其処が宿屋であることに気がついた。

そう言えば、ハンスの宿に泊めてもらったんだっけ。

 

見回すと、セピリアが窓の近くできょとんとこちらを見ていた。

 

 

 

「どったのテオ?? 急にそんな大きな声出して。ちょっとビックリしちゃったじゃん」

 

 

 

肩で息をして、ベットから降りた。

 

 

 

「……何でもない」

 

 

 

ベットサイドに腰掛けてぐしゃぐしゃと前髪をかき上げながら唸れば、セピリアはウサフードの鈴をリンリン言わせて走ってきた。

 

 

 

「おばけの夢でも見たんだね。顔が真っ青だ。……どんな夢?」

 

 

「忘れた」

 

 

 

俺は帽子を引っ掴んで答えた。

胸にはまだ、言いようのない焦りがこびりついている。

 

届かなかった言葉。

 

夢の中の誰かが、まだ泣いているような気がして落ち着かなかった。

 

不意にわしゃっと髪に、小さな手が絡みついた。

セピリアだった。

 

 

 

「なでなでなで、うふ~☆」

 

 

 

俺は、俺の頭を撫で出すチビを睨む。

 

 

 

「……何だよ? 如何いうつもりだ??」

 

 

 

こちらの表情なんて気にも留めず、セピリアは幸せそうにふにゃりと笑った。

 

 

 

「こうすると怖いものは全部消えるんだよ、テオドア。知らないのかい。ジョーシキだよ。みーんな、こうするの」

 

 

 

そんな常識は知らなかった。

まじまじと相手を見つめる。

 

頭をぐしゃぐしゃにされた癖に、あまり悪い気はしなかった。

 

俺は言う。

 

 

 

「変な奴」

 

 

 

不思議と焦りが薄れ、落ち着きを取り戻していた。

セピリアにされるがまま、しばし沈黙する。

 

本当は、頭を撫でるという行為がどんな効果をもたらすかくらいは知っていた。

俺もまた、幼い頃に幾度となくそうされてきたから……そう、育ての親に。

 

やがてセピリアは俺の頭から手を離して言った。

 

 

 

「さ、しっかりしてよね。これからあのレースを楽しく引っ繰り返しに行くんだから。シャキッとしてビシッとしなくちゃあ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

緑の芝が眩しい。

見上げれば、今日も快晴だった。

日差しが容赦なく降り注いでいる。

 

俺は黄緑のドードーに鞍をつけながら言った。

 

 

 

「妨害なんて如何でも良い。が、怪我だけはすんなよ。俺は兎も角として、おまえが走れなくなったら終わりなんだ。俺は傷を負っても、落ちないよう頑張る。おまえは俺を気にせず走れ」

 

 

「……グぅーッ……」

 

 

 

ドードーはわかっているのか、不安げに目を瞬いた。

 

如何やらあの主催者の傍らで、幾度も妨害を見てきたようだ。

 

 

 

「コンディションは上々みたいだネ、テオドア君」

 

 

 

グレイがふらふらと近づいてきた。相も変わらず、呑気だ。

俺はドードーから赤髪の青年へ、目線を動かして言った。

 

 

 

「俺なんかより、てめぇがレースに出た方が良かったんじゃないのか、グレイ? ゲームと言ったら、お手のものだろう?」

 

 

 

質問に、グレイは両手を上げて苦笑する。

 

 

 

「冗談。……勘弁してくれヨ。ゲームはルールがあるから面白いんダ。ルールとは美学だヨ。妨害あり買収ありのレースなんてね、ゲームではなイ。つまりオレは役立たずってワケ。役が立つのはアンタだヨ、テオドア君」

 

 

「それもそうか……」

 

 

 

確かにこれはゲームではない。

 

スタート地点に並んだ参加者達を眺めた。

あの赤ん坊が参加者達の間を縫うようにちょこまかと動き回っては、何やら耳打ちをしている。

 

どんよりとする俺の表情を見て、グレイはケタケタと笑った。

 

 

 

「安心したまエ、テオドア君。既に妨害対策くらい立ててるヨ。どうせ相手五人対アンタひとりなんダ。派手にやろウ」

 

 

「他人(ひと)事だと思いやがって」

 

 

 

俺は裏工作のグレイに文句を言って、ドードーの背に跨った。

鳥に乗ったのは初めてだったが、馬より前が見易い。

手首に触れる羽毛は思いの外、柔らかかった。

 

それに、何製かは忘れてしまったが、セピリアの言う通りこの鞍が素晴らしいものだと知った。

乗りやすい上に、丈夫でしっかりと跨ることができる。

 

……これなら落ちる心配はなさそうだ。

 

スタート地点に並んでみると、見晴らしが良かった。

向こうの方に池やトンネルのようなものが見える。

 

脇の白いスピーカーからざらざらと音がしたかと思えば、「アーアーアー」と人の声が漏れた。

 

 

 

「紳士淑女の皆さん(レディース・アンド・ジェントルメン)、コーカス・レースへようこそ! さあさあ参加者をご紹介。今回の優勝候補、イーディス!」

 

 

 

第一レーンの鷲が翼を広げて、威嚇するように羽搏いた。

日光が黒いサングラスに反射する。

 

あれが赤ん坊のレーサーか。

 

司会者の話は続く。

 

 

 

「水上の魔術師、ロビンソン・ダックワース! 黄色い閃光、ロリーナ! 風見マスターのビル・カーター! 幸運の女神に愛されたポー! そしてぇぇぇ今回初参加となる、へばぁッ!!??」

 

 

 

唐突に司会者の声が途切れ、静かになった。

 

観客が騒めくなか、ピーという高い反響音の後、聞いたことのある声がスピーカーから漏れた。

 

 

 

「あーあーあー、はい今回初参加にして期待の新星(ダーク・ホース)、テオドア&チャールズ! ダークホースだけあって上着も黒いネ、テオドア君」

 

 

 

どっと観客が笑った。

その声に、片手で顔を覆って呻く。

 

 

 

「あンの赤猫ッ、……後で覚えとけよ……!」

 

 

 

如何やらグレイが司会者席を乗っ取ったらしい。

司会者席は観客席よりも上にあり、レース状況が把握し易いからだろう。

 

しかし、恥ずかしいからやめてほしい。

 

ハウリング音を響かせ、スピーカーは高らかに鳴った。

今日のグレイは絶好調である。

 

 

 

「それでは位置についテ~……の前に、其処のカササギさん! ビル・カーターだっケ? そう、其処のアンタ。オイルの瓶なんか如何するつもりなんだイ? もし落っことして誰かが滑ったら、アブナイだろウ。それから稲妻カナリアさんだっケ?? あ、失礼。ロリーナの背中についてるジェットエンジンを誰か外してやってくレ」

 

 

 

観客からブーイングが漏れた。中にはカササギやカナリアに飲み物の空やポップコーンを投げる者もいる。

そそくさと反則物を鳥達は投げ捨てた。

 

司会者席に目を遣ると、マイクを握ったグレイが目配せした。

 

 

 

「それでは位置についテ! ……大事な帽子を落っことすなヨ、テオドア君??」

 

 

 

また観客席が穏やかな笑い声に包まれた。

俺は真っ赤になって、帽子をさらに深く頭に押さえつけ顔を隠した。

 

再度、思う。

 

恥ずかしいからヤメロ。

 

観客席の方を見ると、眩しい白に行き着いた。

ハツカネズミのハンスだ。

目を細めて笑っていたハンスは、ひくひくと鼻を動かして嬉しそうにこちらに手を振った。

俺は微かに頷いてみせ、しっかりと前を向いてレーンに並んだ。

 

スピーカーが鳴る。

 

 

 

「よーイ」

 

 

 

第一レーンの鷲が翼を広げた。

第二レーンのアヒルが首をもたげた。

第三レーンのカナリアが身構えた。

第四レーンのカササギが目を鋭くした。

第五レーンのハトが足に力を込めた。

 

観客席が、緊迫した静寂に包まれる。

 

 

 パン

 

 

スタートの合図が快晴の空に打ち上がった途端、わっと観客が沸いた。