銃を収めて、騒めく野次馬にしっしっと手を振った。
「さあ、もう行った行った! 見世物じゃねーんだぞ」
人々が散った後、不意に俺の帽子が宙に浮いた。
ドードーだった。
「グぅーッ」
ドードーが帽子を咥えたまま、嬉しそうに鳴いた。
俺は、相手の首を優しく叩いて微笑んだ。
「てめぇの所為だからな。責任とって、レースで優勝しろよ?」
「グぅーッ」
ドードーは俺の頭に帽子を落として、胸を張って見せた。
如何やら任せても良いようだ。
「チャールズを助けるなんて、テオやっさしーい」
振り返れば、セピリアがにやにやしながら立っていた。
なので、呆れ顔でドードーから手を離した。
「勘違いすんな。レースで優勝して歯車を手に入れるためには、こいつが必要なんだよ。全ては、とっとと俺の世界に帰るためだ」
俺を見たセピリアは真顔でこう言った。
「……テオは素直じゃありませぇん」
「てめぇ……」
「きゃー! 暴力反対、グレイ助けてぇッ!」
襟首を掴まれて、セピリアはきゃーきゃー笑う。
本当に懲りない小僧だ。
一体如何してくれようか、と考えていると、後ろから声を掛けられた。
「あの、ひょっとしてレースに参加するんですか?」
セピリアの襟首を掴んだまま目を動かすと、赤い目とかち合った。
微かに驚く。
目の前に立っていたのは、人間サイズのネズミだった。
身体中白い毛に覆われている……所謂ハツカネズミという種類だろうか。
そのハツカネズミはおどおどとチョッキの皺を伸ばして言った。
「あっ、あっ、あの……撃たないでください、すみません……でも」
如何やら俺は怖がられているらしい。
セピリアから手を離して、相手に向き直った。
「さっきの騒ぎで気を悪くしたのなら、すまなかった。別にあんたに危害を加えるつもりはない。唯、何と言うか……ネズミに話しかけられたのは初めてで、驚いただけだ。えっと……」
「宿屋のハンスです」
ハツカネズミはほっとしたように肩の力を抜いて名乗った。
俺は帽子を取って応える。
「ハンス、か。俺はテオドア。さっきの話だが、そう、レースに参加しようと思っている。何か俺達に話があるみたいだな?」
優しく尋ねれば、宿屋のハンスは周りをきょろきょろと見回して、そして俺に笑いかけた。
「はい。あの……さっきのあれ、とても格好良かったです。主催者に向かってあんなにキッパリとものを言って……お陰で胸がすっとしました」
俺は首を傾げた。
「主催者? ひょっとしてあの赤ん坊がこのレースを仕切ってるのか?」
「はい」
ハンスはどんよりと顔を曇らせた。
「あの方の名前はホイット・ウィップさんというのですが、ご覧の通り少々酷いことをするのです。数年前からでしょうか。コーカス・レースにホイットさんも参加するようになって、それ以来……優勝するのはあの方です」
思わず、まじまじと相手を見た。
「それって、まさか」
ハンスはこっくりと頷いた。
「あの方は『ずる』をしているのですよ、テオドアさん。参加者を買収して、……買収できない時はレース中に妨害するのです。だから今では、ほとんどレースが偽装と混沌に満ちたものとなってしまいました。私はそれが悲しい。あんなに楽しかったレースが、こんなことになってしまって」
俺はようやく納得した。
この扉を侵食した『歪み(ディストーション)』とは、これなのだと。
ハンスはひくひくと鼻を動かして、こちらを見上げた。
「レースに参加するなら、お気をつけくださいテオドアさん。私は力のないハツカネズミですけれど、せめて安全な鞍を差し上げることくらいはできるかと思いまして……あの、ご迷惑は重々承知しておりますが……でも」
おどおどと不安そうに言うハツカネズミの両手を、急にセピリアががっしりと掴んだ。
「鞍をくれるの!? まじで!? 何製!?」
目をキラキラさせて迫るセピリアに、ハンスは仰け反った。
「えっエドワード・ヘンリー製でございます、すみません」
気弱そうに言うハンスなど気にも留めす、セピリアは勢い良く俺を振り返った。
「ねっ! ねっ! 聞いた!? 凄い、凄い、素晴らしい。鞍だよ、鞍! すっげー、ありがとハンスちゃん」
俺は興奮するセピリアを訝しく見遣った。
「エドワード何とか製って、そんなに凄いのか?」
俺の言葉に、セピリアは冗談抜きでその場に尻餅をついた。
「何言ってるのテオ!? 超、超超超有名なブランドだよ!? ウソでしょ、うわー世界も仰天だよ。エドワード・ヘンリー製の鞍なんて、ひとりでに走っていっちゃうくらい凄いんだよ?」
「……それは鞍として如何なんだ」
こいつの言ってることが、俺にはさっぱりわからない。
勝手に走っていったら困るだろ、それ。
セピリアは立ち上がって、ハンスににっこりした。
「ごめんねぇ、この子ジョーシキなくて」
俺のげんこつがウサフードに直撃して、セピリアは「あうっ」と悲鳴をあげ、再び地面にしゃがみ込んだ。
俺はがたがたと震え上がるハンスに真顔でこう言った。
「悪ィな、こいつ凄い煩くて」
「い、いえ! 大丈夫ですすみません! 殴らないでくださいっ!」
ハンスは何故か俺に平謝りする。
何でだ。
……そんなに俺って怖いか??
ともあれ、帽子を被り直して頭を下げた。
「本当に助かる。ハンス、どうもありがとう」
ハンスは目をぱちくりさせた後、おどおどするのをやめた。
そして期待の眼差しのまま、俺を見て微笑むのだった。
「鞍は私の宿にあります。さあ、こちらへ。如何か怪我をなさらずに、レースで優勝を掴み取ってください」