紳士淑女の皆様(レディースアンドジェントルメン)!

 さあさあどなた様も御立ち合い!

 

きひとつ許されぬ、手に汗握るこの試合

 

  コーカス・レースの始まり始まりィ!

 

 

7.コーカス・レースと長いお話

 

 

レース会場は多くの人で賑わっていた。

まるで祭りのように出店が並び、売り子が懸命に客引きをしている。

 

そして、人々の間からちらちらと緑の芝が輝くのが見えた。

 

少し背伸びをして目を凝らせば、向こうの方に木の柵があって、一面の芝生と障害物のようなものがあるのが窺えた。

如何やらあそこをレース走者が走るらしい。

 

俺とグレイの間を子供達が走り抜けていった。

握られた風船の色が、鮮やかに目に焼きつく。

 

花火の余韻である白煙を見上げ、言った。

 

 

 

「にしても、これが奇妙な廊下の扉の中とは。……信じられねえな。夢や幻とは思えねぇくらい、リアルだ」

 

 

 

グレイは何と言うか、酷く呆れたように俺を横目で見てきた。

 

 

 

「テオ、アンタは魔法を信じるかイ?」

 

 

 

思わず、まじまじと相手を見返した。

 

 

 

「何を当たり前なことを。てめぇだって、日常的に使ってんじゃねえかよ。信じるも何も、在るんだから仕方ねえだろ。俺達の世界によ」

 

 

「では質問を変えよウ。アンタ、別の世界を信じるかイ?」

 

 

 

グレイは至って大真面目だった。

眉を顰める。

 

 

 

「別の世界、だと?」

 

 

「麗夢(ナイトピア)だヨ、テオドア君。アンタ一体、魔法学校で何を教わってきたんダ? オレ達は、どっから魔力をお借りしていると思ってル」

 

 

 

グレイは歩きながら、自分の足元を示して言う。

 

 

 

「此処、だヨ」

 

 

 

此処、だと?

 

混乱しつつ、地面を眺めた。

再び相手の右目を見れば、グレイは猫のようににまにましていた。

 

 

 

「アンタ、魔法を当たり前だと思い、この世界を夢幻と思ってル。オレから言わせてみりゃ、それは変だネ。蛇口から水が出るのを当然だと思いながら、川や湖の存在を忘れているようなものだヨ」

 

 

 

帽子を押さえながら、唸るように尋ねた。

 

 

 

「つまり、此処は俺達の世界と同様、現実のものだと言いたいのか?」

 

 

 

グレイは笑いを引っ込めた。

 

 

 

「その通り。此処は麗夢(ナイトピア)という世界だ。此処とオレ達の世界じゃ、秩序が違う。オレ達の世界の法則も、規則も、此処じゃ無意味だテオ。唯一の共通項と言えば、此処にも魔法が存在し、それを生き物が利用しているってことだけ」

 

 

 

……おわかりかな? とグレイは俺の目を見つめながら続けた。

 

 

 

「どちらかと言えば、源流の川にあたるのがこの世界で、蛇口を捻って魔力のお零れを頂戴しているのがオレ達の世界なのさ。頭に刻んでおきな。でなきゃ、痛い目を見る」

 

 

 

相手の言葉に、呟く。

 

 

 

「もし俺自身が実際にこの世界の土を踏み締めてなかったら、てめぇの話なんか微塵も信じなかったんだろうがな……」

 

 

 

むしろ、大声で笑い飛ばしただろうに。

今となっては、笑えない話である。

 

俺は、こんな世界知らない。

無学で、無知だ。

 

そのことが、酷く恐ろしいことに思えた。

 

俺は、へらへら笑う白兎を思い浮かべた。

 

この世界で最初にあいつに出会ったのは、今となっては恐ろしいほどに幸運なことだった。

あいつは知らぬ間に、俺に常識と言っては、この世界の事柄について注意喚起をしてくれた。

 

……あいつはこの世界の住人なのだろうか。

 

 

セピリアの語った昔々の話と。

 

『歪時廊』が繋ぐ世界、麗夢(ナイトピア)と。

 

パンドラの箱に閉じ込めた『歪み(ディストーション)』と。

 

 

符号はバラバラで、何の意図も描かない。

 

 

俺は何故、あいつと出会った。

 

 

 

(俺の知らないところで、何かが動いている)

 

 

 

背筋に冷たいものが流れるような、曖昧な不安が頭の中を駆け巡る前に、前方から聞こえる言い争う声と野次が、俺を現実へと引き戻した。

 

思考を断ち切り、訝った。

 

 

 

「何事だ?」

 

 

「さあてねェ」

 

 

 

グレイは頭の後ろで両腕を組んで、のんびりと言う。

 

 

 

「我らが白兎君と誰かが、口論をしているようだよテオドア君」

 

 

 

グレイの言う通りだった。

黄色い大きなテントの前で、黄緑色のドードーを連れたセピリアが誰かと揉めているようだった。

 

あの馬鹿……。

 

俺はこめかみを押さえた。

 

如何してこう、トラブルメーカーなんだあいつは。

 

セピリアは既にドードーから降りていて、小柄な誰かに向かって頬を膨らませていた。

 

 

 

「だーかーらー、チャールズはテオのものだってば! キミの勘違いだよう」

 

 

 

セピリアの言葉に、小柄な誰かは顔を真っ赤にして飛び跳ねる。

 

 

 

「違いまちゅ! このドードーはぼくちゃんのドードーでちゅ! 他人のドードーで、勝手にレースに参加しないでほしいでちゅよ」

 

 

 

よくよく見ればそれは、あの時の赤ん坊だった。

 

ふくふくした体型に、山高の麦藁帽子。

間違いない。

 

 

 

「違うのにぃ!」

 

 

 

セピリアはドードーの首に抱きついて嫌々をする。

俺は突っ立ったまま、野次馬に混ざってグレイに言った。

 

 

 

「……揉めてるな」

 

 

「……揉めてるネ」

 

 

 

グレイも興味津々に背伸びをしていた。

完全に傍観者だ。

 

ぴしりと音がした。

 

見れば、赤ん坊が手に持った鞭で地面を叩き、ドードーに命じている。

 

 

 

「早くぼくちゃんとこに戻ってくるでちゅ!」

 

 

「ク、……クワッ」

 

 

 

ドードーは困ったようにつぶらな瞳で赤ん坊を見た後、首をぶんぶんと横に振った。

 

 

 

「クワワワワワワワ」

 

 

「嫌がってるよ――うッ!」

 

 

 

ドードーに抱きついたまま、セピリアが叫ぶ。

 

赤ん坊は両手を突き上げて喚いた。

 

 

 

「キーッ! 言うこと聞かないと、叩いちゃいまちゅよ!? 痛い痛いになりまちゅよ!? いーんでちゅかっ!?」

 

 

「クワワワワワワワ!」

 

 

 

ドードーはぶんぶんと首を横に振った。

 

明らかに嫌がっている。

 

見兼ねた俺は野次馬をかき分けて、セピリアと赤ん坊の間に割り込んだ。

 

 

 

「おい」

 

 

 

言いながら赤ん坊に向き直ると、赤ん坊はたじろいだ。

 

 

 

「な、ななな何でちゅか、おまえは?」

 

 

「そんなことは如何でも良い」

 

 

 

ばしりとそう言い捨て、相手を見下ろし続けた。

 

 

 

「人と動物に、そんな危ないもん向けんじゃねえよ」

 

 

「そうだよッ! テオの言う通りだよッ!」

 

 

 

ばすんと音がして、俺はよろめいた。

セピリアが俺の腰に飛びついて、俺の後ろに隠れながら抗議の声をあげているのだった。

 

 

 

「テオは兎も角、僕とチャールズはか弱いんだよッ! 鞭なんかで叩かれたら、泡になって消えちゃうよッ! むしろ叩くんならテオを叩いてよッ!」

 

 

「てめぇは一体どっちの味方なんだ」

 

 

 

げんこつをちっこい頭に落とすと、白兎は「あうっ」と頭を押さえて静かになった。

 

煩い白兎を黙らせたところで、赤ん坊が目を丸くして俺を指差した。

 

 

 

「あ、あぁ―――っ! さっきのおにーさんでちゅね!? ぼくちゃんのドードーを踏み潰したばかりか、ドロボーまでするんでちゅか!」

 

 

 

げ。

俺は顔を引き攣らせる。

 

覚えてやがったのか。

 

深呼吸の後、俺は冷静な顔で堂々と嘯いた。

 

 

 

「セピリアが言っていただろう? このドードーは俺のものだ。てめぇのドードーなんか知らない。どっかに逃げちまったんじゃねえのか? 無用な言いがかりをつけるな」

 

 

 

俺の言葉に、赤ん坊は唇を戦慄かせた。

 

 

 

「なっ、なっ、何を言うかと思えば」

 

 

 

赤ん坊は怒ったように飛び跳ねて、後ろに控えていた黒いスーツに黒いサングラスの豚三匹に命じた。

 

 

 

「このおにーさんと白兎は大嘘つきでちゅ! 捕まえちゃってくだちゃい!」

 

 

 

豚は主人に向かってひとつ頷くと、無言でボキボキと指を鳴らし始めた。

豚がずんずんと近づいてくるなか、くすくすと笑う赤猫の声が聞こえた。

 

 

 

「テオドア君も物好きだねェ」

 

 

 

野次馬から出てきたグレイが、俺の隣で肩を竦めている。

 

一体どんな早業で組み立てたのか、既に自分の得物である大鎌を担いでいた。

 

俺は筋骨隆々な三匹の豚を睨みつけながら、低い声で応じた。

 

 

 

「煩ぇよ」

 

 

 

グレイはにんまりと笑った。

 

 

 

「ま、退屈はしないケドね」

 

 

 

肩に担いでいた大鎌をひょいと構えて、グレイは身を低くする。

その姿は、ネズミに飛び掛かろうとする猫のようだった。

 

俺は生き生きとした相棒の顔を見て、密かに溜め息をついた。

 

こいつは進んでそれに巻き込まれるほどに、ごたごたが大好きなのである。

 

 

それは一瞬の出来事だった。

 

 

逆巻く風と共に、豚達は呆気なく薙ぎ払われた。

 

瞬きをする間にグレイが隣から消失して、豚達の眼前に音もなく出現したのだ。

筋骨隆々の黒スーツの豚が、グレイの大鎌で宙を舞って地面に突っ込んでいく様は、痛快だった。

 

 

 

「なーんだ、呆気ないじゃン」

 

 

 

鎌を担ぎ直して、グレイは物足りなさそうに欠伸をしていた。

 

……もっと手応えを期待していたらしい。

 

ごたごたにそんな期待を抱くのも如何かと思うが。

 

俺は手間を省いてくれた赤髪の青年をやれやれと見遣った。

赤ん坊の顔がさーっと青くなって、再び赤くなった。

 

 

 

「こっ、この! 許しまちぇん!」

 

 

 

赤ん坊が小さな手に握り締めた凶悪な鞭を振り上げたところで、俺はホルダーから銃を引き抜いた。

零コンマ一秒のうちに、引き金に指を掛ける。

 

ガウンという音。

 

それだけのことで鞭は弾き飛ばされ、遥か遠くの地面に転がった。

 

俺は、そのまま赤ん坊の額に銃の標準を合わせる。

 

 

 

「まだやんのか?」

 

 

「ひぃ……」

 

 

 

赤ん坊の顔が再度青くなった。

赤くなったり青くなったり、忙しい奴だ。

 

ぱっと両手を上げて戦意のないことを示してから、赤ん坊はくるりと俺達に背を向け、素晴らしい速さで逃走した。

 

 

 

「ぼ、ぼ、暴力反対でちゅ―――――ッ!!!」

 

 

 

叫ぶ相手の背中がテントの陰に消えたところで、俺は銃を下ろした。

 

ったく、人騒がせな。