「「っ……!?」」

 

 

 

言葉もなく俺達は揃って停止した。

地震にも近いが、つい先程経験した俺にとってその揺れは、自然災害のそれとは全くの別ものだった。

 

胃が浮くような感覚。

 

歪む視界。

 

 

……そして、悲しげなピアノの旋律。

 

 

 

「歪……時廊か……!」

 

 

 

揺れが止まった。

 

部屋がしんと静まり返る。

 

 

 

「一体何事かイ、テオドア君」

 

 

 

グレイの困惑した声すら耳に入らず、真っ直ぐに木製の扉へ足を運んだ。

取っ手を捻り、押す。

ガチガチと嫌な音を立てるが、それはびくとも動かなかった。

 

 

 

「くっ……」

 

 

 

苛立ちに任せ、扉を拳で殴った時に気づいた。

 

扉の形が変わっている。

 

酒場の扉は長方形のはずだ。

しかしこの扉は上方の角がなく、緩やかなカーブを描いている。

今更だが、取っ手の飾り彫りの感触も違う。

 

 

 

「あららのら。テオ、力づくじゃ扉さんは開いてくれないんだよ」

 

 

 

いつの間にか、よく通る声が隣からした。

見れば、セピリアが俺の掴んでいる取っ手をしげしげと眺めているではないか。

 

思わず脱力した。

 

 

 

「……てめぇといると、ろくなことがねえ」

 

 

 

セピリアの薄紫色の瞳がゆっくりと細まって、其処には無邪気な笑顔があった。

 

 

 

「そう? 僕は楽しいけどね。……てゆうか、此処ってば何処??」

 

 

「あのな……」

 

 

 

くるくると周りに目を走らせては表情を変える相手に、呆れた。

楽しいって何だよ。

何処に楽しい要素があるんだよ。

 

俺は部屋を示し、説明してやった。

 

 

 

「此処は『霧の街(ミスト・タウン)』の裏通りにあるきったねぇ酒場の一室だ。納得したか?」

 

 

「テオドア君、人の部屋を『きったねぇ』と言うのは、実に失礼だネ。本人の前で言うのだから世話ないヨ」

 

 

 

グレイは俺を窘めるようにそう言って、その後セピリアへと目を移す。

いつもだったら少々ヒステリイに怒るはずなのに、こいつがこのような態度を取るのは、如何やらこの白い子供の所為らしい。

 

グレイは芝居掛かったようにお辞儀をした。

 

無論、俺にではなくセピリアに、だ。

 

 

 

「ようこそ我が城へ。まあ、城と言うにはちょっと狭いがネ」

 

 

 

にっこりするグレイの傍で、俺はぼそりと言った。

 

 

 

「……悪の根城と言うにはもってこいだ」

 

 

「何か言ったかイ、テオドア君?」

 

 

 

背後にいる俺に向けられるオーラともつかぬどす黒い空気に、素直に災いを招く口を閉じた。

そんな俺達の遣り取りに気づかないほど、セピリアは上機嫌なようだった。

 

 

 

「素敵なお家だね。僕は好きだよ、こういうふうに華やかに混乱しているお家」

 

 

 

セピリアはきゃっきゃと笑った。

このぶんだと、毒が全て抜けてしまったのは確実だろう。

 

そして、何気にスルーするところだったが、こいつだって失礼なこと言ってんじゃねえか。

 

華やかに混乱……つまるところ、散らかった部屋だ。

 

グレイは俺以外には甘い。

 

 

 

「そうだろうそうだろう。此処が情報屋、赤猫の本拠ってわけサ。で、オレが情報屋(ここ)の主人(マスター)。名前はグレイ・ハッシュフォードだ。以後お見知り置きを」

 

 

 

グレイが名乗るなか、セピリアはと言うと、酒場の扉の方に興味が行ってしまっているようだった。

扉を人差し指でつついたり、こつこつと叩いたりしながらセピリアは言った。

 

 

 

「うん、僕はセピリア・カリーネ・イヴァンジュリン・ノーランド……えーと…………うん! セピリアで良いよ、めんどいから」

 

 

 

あの長ったらしい名前を、こいつは途中でやめた。

 

……めんどいらしかった。

 

俺は懐から取り出したキセルを手の中でくるくると弄びながら、マイペースふたりを眺めて言った。

 

 

 

「……自己紹介は済んだか? そろそろこの状況の整理を始めて良いのか、俺は」

 

 

 

俺の言葉に、セピリアは楽しげに笑った。

如何やら、自己紹介は終了したらしい。

 

 

 

「変なことを言うね、テオ。簡単なことだよ、また『歪時廊』の中に飲み込まれちゃったんだよ、僕らは」

 

 

「何でだよッ!」

 

 

 

突っ込みも虚しく、セピリアは丁寧に今の状況を紐解き始める。

 

 

 

「だってほら、此処、酒場なのに静か過ぎるし、さっきからキミが扉を開けようとしてるのに開かないっしょ? それにさ、さっきあんなに揺れたのに部屋の中のものはひとっつも動いてないもん」

 

 

「それは俺だってわかってんだよ!」

 

 

 

此処は酒場の地下だ。

騒めきも足音も聞こえないなど、異常の極みだ。

 

大体そんな理屈を含めなくとも、さっきの今だ。

飲み込まれたのなんか、感覚でわかる。

 

 

 

「何でまた飲み込まれにゃならん!?」

 

 

 

尋ねる俺がまるで小さな子供であるかのように、白いこいつは宥めるように手を振った。

ウサフードの鈴がちりんと鳴る。

 

 

 

「それはキミがお馬鹿さんなくらいお人好しだからだよ、テオ」

 

 

 

セピリアは自分自身を指差して続ける。

 

 

 

「僕なんか、あすこに放っとけば良かったのに。僕は時計の部品を集めてんだよ? その僕に『歪時廊』の中の『歪み(ディストーション)』が引き寄せられちゃうのは当たり前じゃん。キミが僕を此処に連れて来たから、『歪み』も此処について来ちゃったの。あはっ」

 

 

 

……如何やら原因はこいつらしい。

 

そして、恐らく悪意も害意も罪悪感もない。

皆無だ。

 

人の良心を踏み躙りやがって、と言おうとしたが……やめた。

元々そんな良心の塊みたいな心を以てして、こいつを運んだわけではない。

思い返せば、無我夢中で意識のないこいつを担いで正常な『霧の街(ミスト・タウン)』を駆け抜けていたわけで。

 

別段、何の見返りも望んじゃいなかった。

唯、助かってほしいと、そう願ってしまっただけだった。

 

久し振りに人の血を見て……取り乱したらしい。

 

黙り込んだ俺を不思議に思ったのか、セピリアは「テぇオぉ??」と俺の顔を覗き込んだ。

それからちょっと申し訳なさそうな表情を浮かべる。

 

 

 

「不運だったね。……まぁ、良いよ。ちゃんと元に戻してあげるからさ。此処でちょいと待ってなよ」

 

 

 

如何やら黙り込んだ俺を見て、怒っていると勘違いしたらしい。

 

何をするつもりだと問う前に、セピリアは扉の取っ手を撫でて言った。

 

 

 

「扉さん扉さん、如何か僕を通してくださいな」

 

 

 

一瞬にして、あれほど力を加えても開かなかった扉があっさりと向こう側に開いた。

 

呆気ないほどだった。

 

 

 

「ほりゃっ!」

 

 

 

ぽーんっと扉の向こうへセピリアは消えた。

 

扉が閉まる。

 

 

 

「…………」

 

 

「…………」

 

 

「……放っといて良かったのかイ、テオドア君??」

 

 

「良いわけねぇだろッ!」

 

 

 

静かな部屋に俺の声がやけに響いた。

 

俺は僅か二十代にして、突っ込みをマスターしてしまったようだ。

何と言うか……少し悲しい。

 

扉を見てぼそりと呟いた。

 

 

 

「あんの自己チュー小僧が……」

 

 

 

一方、グレイは可笑しそうにケタケタ笑っている。

 

 

 

「どーするヨ? 此処で大人しく待つかイ? あのコが戻ってくるまで、サ。まあ『歪時廊』は時が狂った場所だから、帰ってくるのは果たして一分後か、百年後か……」

 

 

 

グレイの言葉に俺は、パシッと右の拳を左の手の平に打ちつけて気合いを入れた。

 

 

 

「ぜってー連れ戻す」

 

 

「待つのキライなんだねェ、テオドア君は」

 

 

 

グレイもはなから追うつもりだったのか、露出していた肩に紅の上着を羽織り、自前のケースを背負い始めていた。

俺は頷いて、扉の取っ手に手を掛けた。

 

 

 

「……行くぜ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…………扉が開かないことを思い出した。

 

ガチガチと乱暴に取っ手を回しているんだが。

 

 

 

「…………」

 

 

「…………」

 

 

「……おい」

 

 

「何だヨ」

 

 

「こいつぶっ壊しても良いか??」

 

 

 

俺の言葉に、さすがのグレイも溜め息をついた。

 

 

 

「テオは不器用過ぎんだよ、退け」

 

 

 

……こいつに呆れられたらこの世の終わりだと思った。

何だこの屈辱感は。

 

渋々ながらに脇に退くと、グレイは取っ手を掴んでにっこりした。

 

 

 

「『扉さん扉さん、如何かオレを通してくださいな』」

 

 

 

あっさり開きやがった。

 

そんな制度なのか、これは??

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

扉に飛び込んだ瞬間、床がなくなった。

 

否、元からなかったという方が正しいのかもしれない。

先に通っていったグレイの背中が一瞬で消失したのは、恐らくこの所為だろう。

 

……って、冷静に分析している場合ではない。

 

 

 

「っ……!?」

 

 

 

この世界にも重力はあるのか、その法則に従って俺は闇の中を急降下していた。

 

落下。

 

下って、落ちる。

 

恐らく足を下にして落ちている、はずだ。

 

 

 

「やっぱり待てば良かった……!」

 

 

 

俺の叫び声は、落下速度に比例した風圧にかき消された。

息をするのもままならない。

 

空中で自身から分離しそうになる黒い帽子を引っ掴み、遥か下を見遣った。

 

何の到着点も見えないかと思ったが、微かに赤と白の点が映った。

 

急速に大きさを増して、それは……グレイとセピリアになった。

 

 

 

「あ、テオも来たぁ」

 

 

 

セピリアがこちらを見上げて、嬉しそうな顔をする。

 

一方、俺はそれどころではない。

 

この速度で地面に叩きつけられたら如何なるかくらい、子供でもわかるはずだ。

 

 

 

「うぁっ!? 退けテメェらっ!」

 

 

 

言い終わるか終らないかのうち、俺の落下が止まった。

 

そりゃもう、いきなりに。

 

首が慣性の法則に逆らえず、微かに嫌な音を立てた。

 

俺と地面との距離は、約三十センチ。

 

 

 

「何してんのぉ、テオ??」

 

 

 

視界に白いものが入る。

痛む首を動かすと、目の前に不思議そうな顔をしたセピリアがいた。

 

と、重力が戻ってきたのか、俺はどすんと地面に尻餅をついた。

何とも格好の悪い光景だった。

 

立ち上がる俺のコートをぱむぱむと両手で叩いて埃を掃ってくれたセピリアは、奇妙なものでも見るような顔をしていた。

 

 

 

「こんな何もないところで人がコケたの、僕、初めて見たよ」

 

 

 

大真面目に言う相手に、顔が徐々に熱を帯びるのがわかった。

顔を背けながら、言いわけのように言う。

 

 

 

「煩い。……こっちの重力の法則は如何なってんだ、おかしいだろ」

 

 

 

落下しているものが空中でピタリと止まるなんて、聞いたこともない。

 

セピリアはやはり、あっさりと応じた。

 

 

 

「テオは非常識なんだね。落っこちたら上空三十センチで止まるのは当たり前じゃん」

 

 

 

当たり前らしかった。

 俺は絶句する。

 

グレイが辺りを見回して言った。

 

 

 

「此処が『歪時廊』ってかイ??」

 

 

 

グレイに言われて初めて、周りの情景に気がついた。

 

真っ黒な空間に、古びた石のタイルを敷き詰めた道が遠くまで続いていた。

時に階段になったり、広場になったりしながら、上にも下にもそんな道が浮いている。

その道が薄青い光を帯びているため、足元に困ることはなさそうだった。

 

さながらそれは、闇の中を疾走する天の川だ。

 それは人工的なものと一線を隔した、優しい輝きだった。

 

息を飲み、唯々、見たこともないような光景に目を奪われる。

 

この道を天の川に例えるならば、道の其処彼処に存在する扉は一点の星だろう。

鈍く光り輝く扉にはステンドグラス調の羽目硝子が成され、一定の間隔を置いて道に規則正しく並んでいた。

 

 

 

「何だ、これは」

 

 

 

思わず口を突いて出る言葉に、セピリアはにっこりした。

 

 

 

「『歪時廊』だよ。キレイでしょ? この扉達が歪んだ世界の中の『街』へと繋がっているの。……細かいことは気にしないでいーよ、如何せキミには関係ないもん」

 

 

 

俺は扉を見る。

 

おかしなことに、俺達が立っているところを境目に後方の扉は白く、前方の扉は薄紫に光っていた。

 

 

 

「あ、気づいた??」

 

 

 

セピリアは、一番近くの白く輝く扉をこつこつと叩く。

 

扉には蝶々だろうか蛾だろうか、それを模したステンドグラスが嵌め込まれていた。

 

…………。

 

見覚えがあるが、絶対に思い出したくはな……。

 

 

 

「じゃじゃーんっ! 今さっき僕らがいた疑似『霧の街(ミスト・タウン)』の扉でぇす☆」

 

 

 

思い出させやがったコイツ。

 

俺はげんなりとする。

 

蛾を見た時点で、この扉はあのファンシー混じりな『霧の街』であることは想像がついたが。

 

 

 

「色の違いは何だイ?」

 

 

 

グレイの質問に、セピリアは答えた。

 

 

 

「白く光ってるのは時計の部品を回収し終わって『正常』になった『街』の扉。黒っぽいのは時計の部品が『歪み(ディストーション)』を引き寄せて、おかしくなっちゃった『街』の扉だよ」

 

 

 

グレイはふむと顎に手を添えて頷いた。

理解できたらしい。

 

俺はと言うと、元々理解する気がないので納得も何もなかった。

唯、振り返って視界に入る白い扉より、前方に在る気味の悪い紫光の扉の方が圧倒的に多いことくらいしかわからなかった。

 

今度は一番近くの紫光の扉に手を掛けながら俺達を振り返り、セピリアは今更のように口を開いた。

 

 

 

「ところでさぁ」

 

 

 

言いながら、相手はちょんと首を傾げる。

 

 

 

「キミ達ふたりは何しに来たのぉ??」

 

 

「「気づくの遅ぇよ」」

 

 

 

初めて俺とグレイの突っ込みがハモッた瞬間だった。