少しは己が無知を自覚したら如何だい?
5.そして赤猫は笑う
ばんばんと騒々しく木の扉が叩かれる。
それはそれはもう喧しく、このまま叩き破る気では、などと危惧しそうなほどに今、扉は揺れていた。
叩いているのは勿論、黒いコートに黒い帽子、今は大荷物を抱えたこの俺、テオドア・デュ・ヴィンテージである。
「開けろ! おい、聞こえてんだろグレイ! 寝てんなら今すぐ叩き起こしてやる」
酒場の地下にある借り部屋……つーかもうこいつ個人の部屋と化している部屋。
赤猫の隠れ家だの情報屋承りますだの何だのかんだのと呼ばれてはいるが、俺は唯単に『グレイの汚い部屋』とそう呼んでいた。
「グレイ! 早く開けやがれ、此処に呼びつけたのはてめぇだろうがッ!」
叫んだが、うんともすんとも言わない。
しかしいるのはわかっている。
……こいつは出掛けていたら、わざわざ鍵など掛けておかない。
いい加減にッ、と続けそうになったところで、ようやく部屋の主は応答した。
「ハイハイハぁ~イ、聞こえてマスヨ~~~! 合言葉は??」
「知るかっ! 何だよ合言葉って!? 勝手に作ってんじゃねえぞ、この変人!」
遂に俺はキレる。
扉が開いた。
「ブッブー、ハズレ。正解は『ただいま』デシタ~。テオドア君はせっかちだネ」
出迎えたのは赤髪の少年、―――否……青年を使うべきだろう―――赤髪の青年だった。
俺は足早に部屋へ踏み込んだ。
兎に角、この大荷物を如何にかしたい。
そんな俺をあっさりと通して、青年は木製の扉を閉める。
ひょろりと背が高い癖に我が儘で気紛れなこの青年、グレイはその性格の所為で十代に見えた。
……本当は俺と同じく二十代なんだが。
グレイは早々に口を開いたものの、その内容は聞き苦しいものだった。
「テオドア、アンタらしくもないじゃン。遅刻も遅刻、大遅刻。この逃亡生活で、時間の感覚もなくなっちまったワケ?」
俺は抱えていた大荷物を濃紅色(ワイン・レッド)のソファに置いた。
この場合、横たえたの方が正しいだろう。
何せ、俺が抱えていたのは白い変人なのだから。
俺はグレイを振り返る。
「毒消し」
「オレ達は倦怠期の夫婦カ。述語くらいつけろってノ」
そう文句を言いつつも甲斐甲斐しい妻の如く、グレイはすぐさま毒消しを放って寄越した。
状況を読み取る能力に長けているのが、こいつの美点だ。
毒消しを青白い顔をしたあいつに飲ませていると、グレイがひょっこりと首を伸ばしてきた。
「そういえば、誰だいそのコ?」
空になった薬瓶をアンティークテーブルに音を立てて置き、立ち上がり様に素っ気無く返した。
「拾った」
「へえ?」
グレイは物珍しげに、俺と小僧を交互に見る。
無理もない。
俺は人間どころか銀貨一枚すら拾ったことがない。
当然、グレイにわざわざ世話を乞いに来たこともなく。
数年振りの再会で、グレイがこんな反応をするのもまた珍しいことで……お互い変わったな、などと心の片隅で思った。
まあ、それはさて置き。
バーを模したカウンターの椅子のひとつに腰掛け、本題を切り出すことにした。
「……それで? 何でわざわざこんな手紙(もの)寄越してまで、俺を『霧の街(ミスト・タウン)』に呼びつけた??」
ひらひらとグレイ本人の筆跡で綴られた手紙を振ってやると、グレイは片方しかない目を光らせて笑った。
さながら意地の悪い猫、である。
「おいおい、テオドア・デュ・ヴィンテージ。よもや気づいていないなんて言わせないヨ。気づいてんだロ、相棒?」
にたにたしながら、グレイは続けた。
「何でアンタを追っていた国家の狗共が大人しくなったと思ってるんだイ。最近、物騒な世の中になったからだろうがヨ」
その言葉に、微かに顔を顰めた。
「回りくどいな……戦争の気が漂ってるのは知ってる。隣国との首脳会議で喧嘩吹っ掛けたんだろ、あの馬鹿大臣」
一応、俺だって国の動きは調べている。
この国に戻ってきた理由の中には、単なる『興味』も含まれていた。
何故この時期に戦争を起こす必要がある?
おかしなことだと思う。
理由もなければ、利益もない。
そんな無駄なことを、この国はするだろうか。
個人的な『興味』に負けた結果、俺はこうして此処にいる。
グレイは喉の奥で笑った。
「ククッ……如何やらこのリアクト国、何か秘蔵(とっておき)なモノでも隠し持ってんじゃねーの、って話サ。お偉いサン達の動きがアヤシイねェ。新しい魔術の開発で大忙しダ。『何かするつもり』だな」
グレイの言葉を頭の中で反復し、問う。
「何か、って何だよ」
相手の笑みが一層、深くなったような気がした。
「さあねェ??」
この野郎、と毒づきそうになるのを堪え、置いてあったボトル瓶を手に取り、ラッパ飲みした。
そういえば、あの奇妙な世界に入ってしまってから、水一滴たりとも飲んではいなかった。
喉を潤していると、グレイはこの話は済んだと言わんばかりに話題を変えてきた。
「で? オレの用件を述べる前にさ、……今度はオレが聞く番だけど、遅刻の理由を聞かせてチョーダイよテオドア君」
青年はちらと白いあいつを見る。
「こちらの『拾いもの』サンも」
「だから、何もなかったっつうの。そいつを担いできたら、遅くなっちまっただけだ」
適当な理由づけというのは、人の疑心に拍車を掛けるものだ。
この赤猫は、狙った獲物を逃さない。
「二時間三十分ダ、テオ。アンタが『霧の街』の入り口から此処まで何分で来れるか、今すぐ計算してやろうカ? 十五分と二十七秒ってとこだよナァ? あとの一時間五十七分三十三秒の間、何していたんだ、エ??」
「……てめぇな……」
思わず呆れ、盛大な溜め息をつきながら、早々に降参した。
逃げれば逃げるほどこの猫に痛振られるし、墓穴も掘る。
時には、面倒な説明もする必要があるというものだろう。
人生、諦めることが肝心だ。
「長くなるぞ」
俺の言葉に、グレイはバーの回転椅子に体育座言った。
「良いヨ、暇だし」
相手の表情をしばし眺め、俺はゆっくりと口を開いた。
「……色々端折ったが、大体そんな感じで今に至る」
話し終えた後の、グレイの第一声はこれだ。
「テオドア、……頭、大丈夫??」
今まで真面目に話していた自分が情けない。
「あのなあ! 死にそうな思いで、ようやっとこの世界に戻ってきた俺の気持ちがわかるか!」
喚く俺に動じることなく、グレイはと言うと電話のダイヤルを回している。
「あーハイ、モシモぉ~シ? 精神科ですカ~? ちょっと今、かなり重篤な患者が……」
「今すぐその舌吹っ飛ばしてやろうかテメェ」
銃を構えて凄むと、グレイは受話器をぽいと捨てた。
因みにこいつは電話料金を滞納してやがるから、電話は何処にも繋がらない。
「ハイハイ、冗談ですヨ。大丈夫、アンタの頭は正常ダ。安心しナ」
グレイはにんまりする。
……余計に不安になるのは何故だろう。
怪訝な顔をする俺を差し置いて、グレイは所々跳ねた自身の赤髪を弄りながら言った。
「興味深いねぇ……実に興味深イ。『歪時廊』が出現して、アンタを飲み込むとは……ククッ」
「グレイおまえ、あの変な世界のこと知ってんのか?」
聞いても、相手はにまにまとはぐらかすばかりだ。
わけわかんねえ……。
グレイは伸びをした。
「ん~、何かが動き出していル。テオドア君が飲み込まれた『歪時廊』にしろ、国の不穏な動きにしろ、其処に寝ているコにしろ、何かが繋がっているネ。嗚呼、楽しくなってきタ」
こいつはトラブルというものを、超と大が同時についてしまうほど、好むのだ。
情報屋の性なのか、はたまた元の性格からなのか。
改めて俺は溜め息をついた。
長年の付き合いでもう慣れたけれど、こいつの嗜好は未だに理解できない。
グレイが回転椅子から飛び降りた時だった。
ぐらりと世界が揺れたのは。