「ほらよ。これでちゃんと帰れんだろ? ……さっさと元の世界に戻りてぇ……」

 

 

 

セピリアはくすりと笑って俺に手を伸ばした。

 

 

 

「ハイハイ、今ちゃんと戻っ……」

 

 

 

一瞬の出来事だった。

 

 

本当に刹那の……出来事だった。

 

 

セピリアの、唯でさえ大きな瞳が見開かれるのを見た。

 

 

 

それだけだった。

 

 

 

俺の身体が宙を飛んで、床に尻餅をつく。

 

 

セピリアは確かに俺よりずっと背が低い。

本人に言ったら如何なるかわかったものではないが、とにかく小さい。

 

そんな矮躯であっても全力で隙だらけの俺を突き飛ばすのは、至極簡単だったに違いないだろう。

 

 

 

「ッ……てめぇ……!」

 

 

 

腰の痛みに呻きながらも、さすがに身体を鍛えていたのは伊達ではなく、すぐさま体勢を立て直した。

相手を睨んだ直後、何故自分が白いこいつに突き飛ばされなければならなかったのかを知った。

 

 

 

「!!!」

 

 

 

じわりと、セピリアの白に赤い花が咲いていた。

巨大な蛾のぎざぎざした前脚がセピリアの右肩を裂いたのだ。

 

先程、俺の心臓が在った場所だった。

 

もしこいつが俺を突き飛ばしてくれなかったら、などと寒い考えが頭を掠める。

 

 

 

「しつこいなぁ……」

 

 

 

セピリアは鼻先に迫った蛾を、鬱陶しげに見遣った。

 

 

 

「ギガ……ギガガガガガ」

 

 

 

牙と牙を噛み合わせる音が響く。

その中で微かに、王女の声が聞こえた気がした。

 

 

 

(ねぇ……何もかも忘れてしまうって、どんな気持ちかしら……? 貴方は可哀想だわ。可哀想な、セピ、リア)

 

 

 

ザァ、と砂のような音を立てて、蛾は微塵よりも細かく粉砕した。

 

今度こそ本当に、敵は蛾の子一匹たりとも残さず消えた。

 

軽いショックから立ち直って、俺は手を支えに立ち上がった。

 

 

 

「おまえな……」

 

 

 

頭を振って言う俺に、セピリアはきょとんと首を傾げた。

 

 

 

「テオ、大丈夫かい?」

 

 

「大丈夫か問われるべきなのはおまえの方だろうが」

 

 

 

ちらと相手の肩―――即ち、血で染まるその右肩を見る。

浅く掠っただけとは言え、痛くないわけでもあるまい。

 

セピリアは痛覚がないのか、わざわざ肩を竦めてくれた。

 

 

 

「ああ、これ? う~ん、ちょっと僕ヤバいかもね」

 

 

 

ヘラヘラと笑うこいつは、一部の感情が欠落しているようだった。

 

 

 

「うん、こりゃヤバい。うんっうんっ」

 

 

 

ぶんぶんと確認するように右腕を回すそいつ。

 

思わず問うた。

 

 

 

「なあ、何がそんなにヤバいのか、俺に説明してくれないか?」

 

 

 

即答された。

 

 

 

「痺れてちっとも痛くないんだよっ」

 

 

 

えっへん、とわけのわからないタイミングで、セピリアは胸を張った。

 

……沈黙。

 

 

 

「……。………………はぁ??」

 

 

 

数秒後に漏れる、俺の間抜けな声。

セピリアは尻尾を振る子犬のような顔で俺を見上げている。

 

額に手を当てて息を深く吸った後、一応……一応、確認のために反復した。

 

 

 

「あ~~~っと……つまりアレか? 蛇とか虫とかにある、『毒』って奴かまさかの……」

 

 

 

言い終わるか否かのうちに、ふらっと白が揺らいだ。

そのまま意識を失って床に向かうその小さな身体を、俺は如何にかこうにか受け止めた。

全く、心臓に悪いったらない。

 

……こいつ、急に倒れやがった。

 

反射神経のお陰で、頭を打つとかいう二次被害は免れたものの。

 

俺は慌てた。

 

 

 

「おい! しっかりしろ、てめぇが気ィ失ったら、俺は如何やって帰るんだ! おい! チビ! ガキンチョ! おーいッ!」

 

 

 

床に横たえた途端、まるで思い出したかのように一気に鮮血が吹き出した。

冗談とかは残らずあっちに置いといて、これは結構深刻だ。

こいつの言葉を借りるならそう、ヤバい。

 

セピリアの顔が徐々に青褪めていくのを見て、表情をなくした。

 

俺は、毒消しなんて持っていない。

 

一体如何したら……。

 

赤。赤、赤、あか。

嗚呼、上手く息ができない。

 

 

如何したら。

 

 

 

俺は、如何したら良い??

 

 

混乱した頭を抱えてセピリアを凝視していると、不意に、チカッと何かが反射したような気がした。

それは太陽のように暖かな光だった。

 

因みに此処は屋内だ。

 

ましてや外は既に夕闇。

 

太陽の光と思う馬鹿はいないだろう。

 

 

 

「歯車、か?」

 

 

 

チカッチカッと歯車が光る。

 

否、歯車だけではない。

二方向に光を感じる。

歯車とは別の光源を探せば、何とまあこの白い変人の腹の辺りが光っているではないか。

 

恐る恐るそいつを観察してみると、ウサフードから覗いた細い首に鎖のようなものが窺える。

引けば、光が動いた。

腹から心臓、鎖骨、そして鎖を引っ張り続けるうち、眩しいくらいのそれがセピリアのウサ耳フードから姿を現した。

 

金色の懐中時計だった。

 

 

 

「引き寄せているのか……??」

 

 

 

床に転がった歯車が震えている。

 

もう、こうなれば手はひとつしかない。

 

俺は歯車を指で摘まみ上げ、はたまたセピリアの懐中時計を引っ張り上げ……この時既に、歴史は動き出していたのかもしれない。

俺が信じていない、『神』と呼ばれる者の手によって、必然的に――。

 

 

そのふたつは、明るい鐘の音のような音を響かせてぶつかり合った。