きみはあれ?

 

 

2.白い兎に踊らされ

 

 

うねるように生い茂る硝子の木の枝が、黒い帽子を攫っていきそうになる。

それを必死で頭に押しつけながら、俺は走った。

気持ちばかりが焦ってなかなか前に進まないのがもどかしかった。

 

白い後ろ姿がまた角を曲がった。

 

思った以上にすばしっこい。

 

 

 

「くっ……待てよ、おい!」

 

 

 

息が切れて大声が出ない。

そういや最近、運動不足だった。

次からは何があろうと体力だけはつけておこう、という教訓が、脳内を過る。

 

ようやく角を曲がった先に、あの人影はなかった。

 

はあはあと喘ぎながら、しきりに辺りを見回しても、動くものといえば何の秩序もなく生い茂る木にぶら下がった棒付きペロペロキャンディーと、空を流れるボーダー柄の雲だけだった。

 

またも希望を逃してしまったのだ。

 

思わず落胆して、道の段差に座り込んだ。

 

 

目の前には市場が広がっていた。

野菜や雑貨やその他諸々が、ところ狭しと並んだ店の群れに置かれている。

 

もしも多くの人々が行き交い、売り子の威勢の良い声が響いていたのなら……そう、それはまさしく『いつもの』霧の街(ミスト・タウン)だっただろう。

街の外観は酷似しておきながら人っ子ひとりいないこの場所に、言いようのないうら寒さを覚えた。

もはや俺の夢妄想とも思えなかった。

 

夢の中で走って自身の心音が聞こえるほど、心拍数が上昇するはずがない。

 

わかってはいたけれど、認めたくはなかった。

 

此処までくると、自分の頭の方が心配になってくる。

夢であってくれ……頼むから……。

 

 

もうこれ以上歩く気にもなれず、俺は近くのブティックの壁に背を預けて座り込んだ。

考えるのに疲れると、微かな睡魔が忍び寄ってくる。

寝れば何かが変わってくれるかもしれない。

そう、次に目が覚めたら元のくだらない生活に戻っていて、いつも通り追手に追いかけ回されてそれで……。

 

俺は自嘲気味に笑った。

 

 

 

「はっ……蒼穹の銃使いと名高いテオドア・デュ・ヴィンテージ様の頭も、遂にイカレたか……」

 

 

 

すっと目を閉じ、俺は心地良い闇に意識を手放した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

急な寒気が襲ったのは、どのくらい経ってからだろうか。

数時間後だったかもしれないし、数分後だったかもしれない。

しかしこの寒気は知っていた。

 

恐ろしいものに狙われている時の、高いところから足を滑らせた瞬間の、冷たい刃物が今にも自分に振り下ろされそうな時の、そんなひやりとした感覚だった。

 

それは本能レベルで、人の心に刻み込まれている。

 

 

はっと目を開け、何も考えずに横に跳んだ。

その刹那、重い音が静まり返った市場に響き渡る。

 

衝撃と共に石片が辺りに降り注いだ。

 

顔を庇った腕を下ろしてみると、先程まで自分がいた場所は、見るも無残な姿になっていた。

続いて俺は、事の元凶である相手に目線を移す。

 

 

 

「……何だよ、てめぇは」

 

 

 

相手は煉瓦造りの歩道に食い込んだ巨大な棍棒を引き抜き、ぎこちなくこちらに顔を向けた。

 

人間よりも大きな兎のぬいぐるみ。

 

もしこの表現が正しいのなら、子供達は大喜びしただろう。

しかしそれは、もっと凶悪なものだった。

 

片耳が千切れ、あちこちに継ぎ接ぎがある。

中には手抜きな修理屋にでも出したのか、綿がはみ出している部分も窺えた。

元は白かったのだろうが、今は灰色に汚れてしまっている。

 

俺曰く『きったねぇぬいぐるみ』だ。

 

 

 

「ア、……避ケチャッタ?? コッチオイデ、オイデ、今度ハニ、ニ、ニガガ……逃ガサナイカラ……」

 

 

 

ぬいぐるみの中から、ラジオテープにでも撮ったような声がした。

 

時折雑音の入る耳障りなそれに、嫌な顔をしてみせる。

 

 

 

「……話が通じる相手じゃねえってか」

 

 

「オイデオイデオイデオイデ」

 

 

 

ゆらりゆらりと首を揺らして、異形の相手は覚束ない足取りで歩いてきた。

 

風切り音と共に、棍棒が降り上げられる。

再び避けると同時に振り下ろされた凶器が、ブティックの硝子ショーウィンドウを粉々に粉砕した。

予想以上にスピードのある重い一撃だ。

もし、あのまま眠っていたら……などと思いながら、引き攣った笑みを浮かべる。

 

ひと眠りどころか、そのまま永眠してしまうところだった。

 

笑えない話だ。

 

そして、もうこの世界が誰かの狂った夢でないことは明白である。

頬をつねられるよりも確実な衝撃を以てして、そう理解した。

 

俺はコートに隠れていたホルダーから銃を抜き、臨戦態勢に入った。

 

 

 

「わけわかんねぇ世界の次は、わけわかんねぇ玩具かよ。喧嘩売る相手間違えたな、てめぇ」

 

 

 

言いながら、兎のぬいぐるみに発砲した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「っ……しぶといな……!」

 

 

息を切らせ、水の止まった噴水台に隠れながら、銃に弾丸を込め直した。

大きな広場に近づいてくる足音が耳障りだ。

 

 

 

「ドぉコカナ? カクレンボ、ガガ、隠レテ見ツケテ……」

 

 

 

バチチッとショートを起こしながらも、ぬいぐるみはまだ動いていた。

 

近づいてくる。

 

標的(俺)を探して。

確実に距離を詰めてくる。

 

もう、弾丸は尽きる。

 

 

 

「くそっ……」

 

 

 

如何したら良い。

 

混乱する頭を必死に宥め、考えた。

助かるためなら、何だって策を絞り出してきた自分だ。

 

助けは来ない。

 

今、この奇妙な世界に俺がいることを知る者は、誰ひとりとして存在しないのだ。

俺が何とかしなければ。

 

このまま相手にできるほど、楽な敵でないことはよくわかった。

ならば、本気を出す他あるまい。

 

ふうと息をつき、白い手袋を外した。

 

嗚呼、できれば最終手段など使いたくなかったのにな。

 

 

 

「おい、兎ヤロー! 俺は此処だッ!」

 

 

 

ゆっくりと噴水台の陰から出ながら、叫んだ。

 

棍棒が噴水台の天使像を砕く。

 

俺は相手の武器の上に着地すると、そのままその上をひた走った。

相手の肩に足を掛け、その勢いのまま、渾身の力で相手の頭に蹴りを入れる。

衝撃で、ぐらりとぬいぐるみの身体が傾いた。

 

広場に着地すると、地響きを立てて倒れる相手に銃口を向けた。

 

 

 

「響け、『冥界堕ちゆく誘(いざな)い歌』!」

 

 

  ごう

 

 

数多の異界の風が出現し、次の瞬間、構えた銃口から恐ろしいまでの威力を纏った魔術の弾丸が、一直線に相手に向かっていった。

一瞬、空気の動きが止まり、続いて衝撃波が前方の一角を吹っ飛ばした。

 

爆音と突風が過ぎ去った後、俺は止めていた息を吐き出した。

 

 

 

「……やったか……っ!?」

 

 

 

浅い息を整え、もうもうと煙る前方を睨む。

最後にして最終の手段だった。

これが決まらなければ、お手上げだ。

 

俺の不安を余所に、煙が消えた先には砂微塵と化した残骸が散らばっているのが窺えた。

 

思わず脱力する。

 

安堵した瞬間、急激な疲労が胸をついた。

 

 

 

「はあっ……はあっ……は」

 

 

 

頭を押さえ、ずるずると壊れた噴水に身を預けて俺は切に思った。

 

 

 

(もう帰りたい)

 

 

 

まじで。

家が恋しくなってきた。

この年でホームシックになるとは考えもしなかったな、と軽く笑った。

 

今の俺を見たら、昔馴染みのグレイは一体どんな顔をするだろう。

 

 

そんなことが頭を掠めた時、物音が俺を現実に引き戻した。

 

点けっ放しのラジオを何十も放置したような、雑音。

 

騒めき。

 

顔から手を退かすと、視界の隅に何体何十体と揺らめく凶悪なぬいぐるみ達の姿が映った。

棍棒、斧、鎖鎌、剣……手に手に凶器を携えて、それらはやってくる。

 

 

 

「嘘だろオイ……」

 

 

 

あんなのがまだいたのかと思うと、頭の中が真っ白になった。

絶望的な光景に、覚悟も決まらない。

 

こんなところで。

 

こんなところで終わって堪るか。

 

汗ばむ手で銃をきつく握り締め、よろよろと立ち上がった。

久し振りに感じる恐怖を無視し、異形の群れに銃口を向ける。

その銃が震えているのは、疲れの所為だ。

 

こんなところで終わって堪るか。

 

俺は深呼吸をして覚悟を決めた。

 

 

 

その時、何かの流れが狂った。

 

 

 

 

 

「あーあーあーあ」

 

 

 

唐突に真後ろから呆れたような声が響く。

 

 

「何のお祭り騒ぎかと思って来てみたら、まぁ~たまたまた歪みまくりかよォ」