その色は何処までも

      俺を捕らえて放さない

 

 

11.青の湖に抱かれて

 

 

最初に感じたのは冷たさだった。

身体に纏わりつく水は重く、どんどん下へと引っ張られる。

 

そして、例のピアノの音が聴こえた。

 

水中なので幾分、くぐもって遠い。

 

 

 

(息が……)

 

 

 

俺の手が遥か遠くの光へ伸びる。

水面はどんどん離れていく。

 

噴水がこんなに深いわけがない。

普通なら、とっくに底に背中が着いているはずだ。

 

思い切って身体を反転させてみると、目の前には青のグラデーションが広がっていた。

 

深い。

 

それに何て広さだ。

 

そんなことを考えていると、水圧で肺が悲鳴をあげた。

 

 

 

「ごぼっ!?」

 

 

 

吐き出した大量の気泡が、水面に向かって上昇していった。

 

 

 

(しまった……苦しい)

 

 

 

再度手を伸ばした俺を嘲笑うかのように水面はちらちらと揺蕩う。

手を気泡がすり抜けていく。

 

もう長くは保たないと思った。

脳が酸素を求めている。

 

苦しい。

 

苦しい。

 

抵抗するように霞む水面に向かってもがくが、俺の身体はさらにスピードを上げて下に沈んでいった。

最後の呼吸を吐き出して、堪え切れずに思い切り水を吸い込んだ。

 

肺が冷たい水で満たされ、そして……。

 

 

 

 

 

「あ? ……全然苦しくねえ……」

 

 

 

自分の喉を押さえ、そっと呼吸をしてみた。

何のことはない。

まるで冬の朝の冷たい空気を吸っているように、しっかりと身体中に酸素が行き渡る。

 

俺は煌めく水面から水の底へと視線を移した。

 

 

 

「本っ当、おかしな世界だ此処は」

 

 

 

俺の言葉はふわりと水に溶けて消えた。

慣れてしまえば簡単で、喋れるし、音だってちゃんと聞き取れる。

唯、如何しても水を吸って吐いて平気な自分がいることに多少の違和感を持ってしまうが。

 

そうこうしているうちに、水中散歩の終わりが見えてきた。

水底に石の舞台のようなものが窺えた。

遺跡か何かだろうか。

 

ゆっくりと俺の身体が漂って、平らな舞台に着地した。

 

とん、と靴が石に着く音。

 

それを合図とするかのように、地上にいるような重力が戻ってきた。

 

見上げれば青の天井が広がり、遠くなるにつれて色が淡くなっている。

此処がこんなにも明るいのは、水面から差し込む光の帯が降り注いでいるからだとわかった。

透明度の高い水である。

 

黄色い小さな魚が何匹も、俺という異邦人を不思議そうに眺めている。

泳ぎ去るには好奇心が強過ぎ、近づくには臆病過ぎるのか、俺の周りを唯、泳ぎ回っていた。

 

俺は、帽子を被り直しながら呟いた。

 

 

 

「此処からは歩け、ってか」

 

 

 

円形の広い舞台の向こうに、綺麗な色の石階段が見えた。

 

兎に角、目的はひとつ。

白兎を探さなければ。

 

奇妙な確信があった。

 

俺が此処に来たということは、あいつもまた此処にいる。

 

最初に出会った時とは比べものにならないほど強く、必然的な何かを感じた。

 

 

 

俺は白兎を見つけられる、と。

 

 

 

鮮やかな珊瑚や藻に縁取られた舞台を歩き、階段を下りていった。

階段を下りると、靴が柔らかい砂に沈んだ。

見れば、一面に細かい白い砂が広がっており、複雑に入り組んだ珊瑚が迷路を形成している。

さくさくと歩くと、砂の上にいた青色の小さな蟹が驚いたように逃げていった。

 

俺は珊瑚の間を縫って歩いた。

時折ちらつく大きな魚の影に、此処は海なのだろうかと不思議に思う。

吸い込む水の冷たさに、塩の気は感じられない。

 

淡水に生える珊瑚も熱帯のように色鮮やかな魚達も、俺の常識から逸脱した存在だった。

 

どれくらい歩いただろうか。

 

同じような珊瑚の森の風景に、そろそろ方向感覚が狂ってきたな、という考えが頭を掠めた時だった。

耳が微かな音を捉えた。

 

俺は立ち止まる。

 

 

 

「泣き声、か……??」

 

 

 

幾つかの分かれ道を見回して、呟いた。

 

 

 

「こっちの方からだな」

 

 

 

右の方から悲しそうにすすり泣く声が聴こえた。

一応、銃のホルダーを確認し、俺は右の道へと歩き出した。

 

如何せ疑似『霧の街(ミスト・タウン)』然りオールドワーズの森然り、怪しげな方へ進めば大抵の場合、上手く問題が解決したのだ。

今更嫌がっても仕方あるまい。

 

柔らかい砂を踏み締め、珊瑚に挟まれた道を慎重に進んだ。

泣き声を頼りに歩いていると、何となくコーカス・レースの時の夢を思い出した。

 

泣いている誰か。

 

ピアノの旋律。

 

現実味のない世界。

 

届かなかった言葉。

 

 

 

焦り。

 

 

 

ひょっとしたら、あの夢と赤ん坊の言葉と、何か関係があるのかもしれない。

セピリアなら知っているだろうか。

 

視界が開け、其処には大きな岩場が在った。

此処も同じように珊瑚に囲まれている。

 

見上げた先に、淡い髪を靡かせた魚が泣いていた。

 

魚?

 

 

否、女性か??

 

 

俺は首を捻る。

確かに腰から上は人間の女性だが、脚の代わりに魚の尾がついていた。

俗に言う、人魚という奴だ。

 

其処まで観察したところで、人魚が大きく吃逆をあげた。

その声に、はっと我に返った。

 

 

 

「なあ」

 

 

 

声を掛けると、岩場に腰掛けた人魚はびくりと肩を跳ね上げて、こちらを見下ろした。

 

 

 

「だっ、誰……?」

 

 

 

人魚の潤んだ瞳が怯えたように見開かれたので、慌てて言った。

 

 

 

「人を探してるんだ。道に迷っちまって、それで……怖がらせるつもりはなかった」

 

 

「人を?」

 

 

 

人魚はぐすぐすと涙を拭う。

一生懸命、涙を止めようとしてくれているらしい。

 

あまりに悲しそうなので、おずおずと聞いてみた。

 

 

 

「何が悲しくてそんなに泣いてるんだ?」

 

 

 

途端に人魚はわっと泣き崩れた。

 

 

 

「ヴァイオレットと喧嘩したの! わッ、……私、唯……唯、ヴァイオレットが……うっ、ううう」

 

 

 

水色のウェーブがかった髪を振って、人魚は両手で顔を覆う。

俺は跳び上がった。

 

人に泣かれるのは、兎に角苦手だった。

それが女とくればもう、お手上げだ。

 

俺は遥か頭上の人魚を見上げ、おろおろとした。

 

 

 

「なっ、泣くな! そんなに泣いたら涸れちまうぞ!」

 

 

「だ、だって、だって私……酷いこと言っちゃったのよ。もう嫌われたかも……生きてけないわ……っ!」

 

 

 

だいぶ取り乱しているらしい人魚を見上げるのをやめ、俺は痛む首をさすった。

岩場を見るが、とても登れそうにない。

 

俺は言った。

 

 

 

「兎に角、此処まで下りて来てくれないか? これじゃ、話も聞けねぇよ」

 

 

 

俺の言葉に、人魚はぐすんぐすんと頷いた。

 

 

 

「わかった……下りる」

 

 

 

すいっと尾ひれで水を蹴って、人魚がすぐ近くまで下りて来てくれた。

こう見ると、鱗のひとつひとつが青く煌めいている。

 

本物の魚の鱗……らしい。

 

相手の顔を見て帽子を取り、言った。

 

 

 

「それで?? ヴァイオレットって誰なんだ?」

 

 

 

優しさを心掛けると、人魚は警戒した表情を緩めて答えてくれた。

 

 

 

「私の双子の姉なの」

 

 

「そいつと喧嘩したって?」

 

 

「そう」

 

 

 

こっくりと人魚は頷いた。

だいぶ落ち着きを取り戻したようだった。

 

人魚はまじまじと俺を見て言った。

 

 

 

「あなた、外の世界の人?」

 

 

「まあな」

 

 

 

肩を竦めてみせると、人魚は物珍しそうにさらに近づいてきた。

 

 

 

「ふうん。へえ、私あなたみたいにふたつの足で歩く人魚は初めて見たわ。嗚呼、思い出した! 外の世界の人って、不思議な力を持っているのよね?」

 

 

 

そんなの初耳だ。

首を傾げていると、人魚は嬉しそうに言った。

 

 

 

「そうだわ! ねぇ、あの……私のこと手伝ってくれない?? 姉と仲直りしたいの。あなたの力があれば、きっと上手くいくはずだわ! 白兎ちゃんみたいに!」

 

 

 

思わず反応した。

 

 

 

「セピリアのこと知ってるのか!?」

 

 

 

俺の勢いに人魚はきょとんとした。

 

 

 

「あら、当たり前じゃない。白兎ちゃんを知らない人なんか、この国にはいなくてよ。もしかしてあなた、白兎ちゃんを探しているの? 友達??」

 

 

 

俺は躊躇った後、頷いた。

 

 

 

「俺はテオドア。あいつに伝えたいことがあってこっちに来たんだが、この通り……土地勘がなくてな」

 

 

「あら! あらあらあら!」

 

 

 

人魚はにっこりとして両手を打ち合わせた。

 

 

 

「じゃ、話が早いわ。私が街まで案内したげる。それで白兎ちゃんを一緒に探しましょうよ。代わりにあなたは私に手を貸して? ひとりでヴァイオレットに会う勇気がないのよ、テオドア」

 

 

 

俺は目を瞬く。

 

 

 

「道、詳しいのか?」

 

 

 

その言葉に人魚はぷうっと頬を膨らませた。

 

 

 

「ねえ、ちょっと! 私を誰だと思っているの? 私は此処ティアリ―シルクの姫、スカイ=ブルーなのよ。私の知らない道なんてないわ!」

 

 

 

如何やら俺は、とんでもないご身分の奴と出会ってしまったらしい。

しかし、これで白兎への手懸かりを掴めたような気がした。

俺は微笑んだ。

 

 

 

「そりゃ頼もしい限りだな。よろしく頼む。代わりに手を貸そう」

 

 

 

手を差し出せば、相手は嬉しそうに頬を紅潮させて俺の手を握った。

 

 

 

「ありがとう! じゃ、私について来てね」

 

 

 

彼女は身も軽く岩場から水を蹴って、俺の前を泳いでいく。

俺はスカイ=ブルーの背中を見失わないよう追った。

もともと彼女の庭なだけあって、あっという間に珊瑚の群れを抜け、僅か数分で視界が大きく開けた。

 

思わず立ち止まった。

 

俺の目の前には、不思議な光景が広がっていた。

 

石のアーチの向こうに幾つもの巨大な巻貝が隣接している。

淡い黄色、桃色、水色、……街、なのだろうか? そしてその奥に、一際大きな建物の影が見えた。

儚い青の水に抱かれて、それらは陽炎のようにゆらゆらと揺らめいていた。

 

 

 

「テオドア、何してるの? 早く早く!」

 

 

 

視線を上方から戻すと、石のアーチの前でスカイ=ブルーが大きく手招きをしていた。

 

俺は再び石の壁に囲まれた不思議な街に向かって駆け出した。