ラストはデスクの前で俺を振り返った。

 

 

 

「白兎を連れて来い。それだけで良い。そうすればそなたの罪、一切合財を帳消しにしてやろう。悪い話ではあるまい?」

 

 

 

俺は前屈みになっていた身体を起こして、相手を見る。

 

警戒しながら聞いてみた。

 

 

 

「もし断わったら、……如何なる??」

 

 

「こっ、断わっちゃ駄目だぞッ!?」

 

 

 

エイダが俺の腕を掴んであわあわとした。

エイダを訝しく見遣ると、ラストは平然と言った。

 

 

 

「仮に断わったら、そなたの口を塞がなければなるまいよ。私はそなたに機密事項を漏らしたのだからな」

 

 

 

ひやりと首に冷たい刃が当たるのがわかった。

一瞬にしてラストが目の前に出現していた。

 

息を飲む間も、ましてや彼が抜刀するのを目視する間もない早業だった。

 

ラストの瞳の奥で氷のような光を見た。

 

 

 

「今此処で、消えてもらう」

 

 

「はは……とんでもねえこと言いやがる……」

 

 

 

俺は目の前の男を見上げ、乾いた声を漏らした。

言うべき答えがひとつしか用意されていないことに。

 

とてつもない悪意を感じた。

 

 

 

 

「わかった。その取り引きに応じよう」

 

 

 

精一杯の虚勢を張って冷静を装えば、ラストはあっさりと剣を引いた。

 

 

 

「ものわかりが良くて助かる、銃使い。そなたは今まで会ったどの人間よりも聡いな」

 

 

 

ラストはすたすたとデスクへと歩いていく。

俺は冷めてしまった紅茶に映る自分を見ながら聞いた。

 

 

 

「如何して、俺なんだ」

 

 

 

その問いがラストに対してだったのか、隣で怯えた少女に対してだったのか、自分に対してだったのか、わからなかった。

エイダが小さな声で呟くのを聞いた気がする。

 

 

 

「あなた以外、白兎を見つけらんないから」

 

 

 

ラストが指を振った。

ぱきん、と扉を覆っていた赤い膜が砕けて消失する。

 

ラストは静かに言った。

 

 

 

「それでは話もついたことだし、お帰り願おうか。安心すると良い。城の外まで送らせる際、レッド隊長には大人しくしてもらう。それに、そなたが白兎を此処に連れて来るまでそなたに危害を加えぬよう、全兵士に伝えておこう。仮初めの自由なれど……」

 

 

 

俺が扉の前で一度だけ振り返ると、ラストはデスクの前で首を傾けていた。

 

 

 

「忘れるな。そなたはこの国(かご)の人間(とり)だと」

 

 

 

他国に羽搏けると思うな、と聞こえたのは何も俺の気の所為ばかりではないような気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(一体、俺に如何しろと言うんだ)

 

 

 

城から解放され、俺は街を歩く。

もう黄昏時の光が建物を赤く染め、窓に当たって俺に反射光を投げかけていた。

 

 

 

(白兎を連れて来い、か……)

 

 

 

ぼんやりと男の要求を思い出し、帽子を深く被り直した。

やはりこの国のおかしな動向と、セピリアは関係していたのだ。

 

そして、俺は……。

 

 

 

(それに巻き込まれた)

 

 

 

逃げるという選択肢すら奪われてしまった今、俺に残されているのは白兎を探すことだけ。

 

確証も……痕跡すらもない、白兎を。

 

一瞬、あいつの笑顔が浮かんだ気がした。

 

 

 

(……裏切るわけじゃない。大体、てめぇは俺の家族でも友達でもねえだろ。てめぇの所為だ、馬鹿セピリア)

 

 

 

言い訳のように理由の理由を探して、俺は歩いた。

裏路地を左に折れ、人も疎らになった市場を探す。

 

白兎の痕跡を探す。

 

 

 

(魔力の枯渇を防ぐための開発、その大層なことに手を貸すだけだ。俺も、セピリアも。考えてもみれば、それは戦争抑止にも直結するじゃねえか。人助けだ。人助けの等価交換が、あいつってだけで……)

 

 

 

市場を出て真っ直ぐ歩いた。

目の前に、かつて通った魔法学校の巨大な影が現れ、鐘に西日が煌めくのを見る。

 

白兎はいない。

気配もない。

 

『歪時廊』の余韻すら…。

 

やはり時計の一部がなければ、あの奇妙な世界への回廊は現れないのだろうか。

 

ぎりと歯噛みした。

何もできない俺に、これ以上何をしろと言うんだ。

急に芽生えた焦燥感に、足が突き動かされる。

小さな喫茶店を曲がって、左手に雑木林を眺め、駆け出した。大通りに沿ってこの街の門(ゲート)へ。少し戻って袋小路へ。

 

いない。

 

大通りを折れて船着き場へ。

 

誰もいない。

 

 

 

「はあ……はあ……」

 

 

 

喘ぐ俺の真上で街灯が点いた。

顔を上げれば夕日は既に水平線に沈んで、青い宵闇が街に忍び寄っていた。

ジジジと次々に街道の灯が点いていくのを眺めていると、船が汽笛をあげて岸から離れていった。

気温が下がると共に湧いてくる霧の彼方に船が消えていくのは、何となく虚しかった。

 

俺は元来た道へと歩き出す。

 

 

 

(グレイのところにでも、……行こうか)

 

 

 

そんな弱気なことが頭を掠めた。

あの赤猫はいつだって冷静で、飄々としていて。

きっと何が起こっても、打開策を思いつくだけの力を持ち合わせているだろうから。

 

直後、自己嫌悪する。

これ以上、グレイに迷惑かけて如何すんだ。

唯でさえあいつには数年前の大騒動の借りがある。

それに今回だって、結果的には手を貸してくれたようなものではないか。

師匠(せんせい)の銃も守ってくれた。

 

これ以上に何を、……何を望むと言うのか。

 

 

 

(まるで変わってない……俺は)

 

 

 

弱い。

 

運命に翻弄される立場に嘆いてこの国を出たというのに、何も変わっていないような気がした。

何も変われないような気がした。

 

足を動かすうちに水の音が聴こえてきた。

見れば、噴水広場に戻っていた。

広場の人は疎らだった。

その少ない人数も各々の家への帰宅途中だったのか、街角に消える。

 

街の夜は静かだった。

 

 

 

(白兎を連れて来い、か……)

 

 

 

噴水の隅に腰を下ろして、俺は城の影をぼんやりと眺めながら反復した。

 

 

 

(師匠の次は、白兎を連れて来い、か。俺は国のお使いじゃねえ)

 

 

 

ホルダーから銃を取り出して見つめると、銃は青く輝いた。

師匠の銃。

 

何て、重い。

 

俺は自分の膝を引き寄せ、歯を食い縛って呻く。

 

 

 

「師匠……」

 

 

 

俺には、重過ぎて背負えないんだ。

あなたが簡単に引いてた引き金の重さが。

 

もっと色々教わっておけば良かった。

もっとたくさん学んでおけば良かった。

 

後悔は先に立ってはくれないからせめて、同じことを繰り返したくないのだ。

 

 

 

(早くセピリアに会わなければ。会って、逃げろと警告しよう。何処か遠くへ……この国の連中に捕まらないところへ逃げろと伝えよう。俺はもう、誰も国に引き渡すつもりはない)

 

 

 

握った銃の彫り込みを親指でなぞりながら、思う。

 

 

 

(セピリアを探さなければ。……兎に角あいつに会わなきゃならないんだ)

 

 

 

俺は思う。

 

……強く思う。

 

 

 

(セピリアに会わなければならない)

 

 

 

親指を止めて、顔を上げた。

 

よし、もう一度この街の中を歩……。

 

 

 

 

 

「!?」

 

 

 

俺は停止した。

そう言えば、やけに静かだな。

 

見回しても、辺りはしんと静まり返っている。

わけもわからず、俺は背後の噴水を見上げた。

水が流れているのに、まるで無声映画のように音だけが切り取られている。

 

これは。

 

 

この現象は。

 

 

 

「……近い……」

 

 

 

近くに何かの気配を感じた。

それが『歪時廊』であると確信を持つのに、そう時間はかからなかった。

 

勢い良く立ち上がって、噴水に向き直った。

兎に角この広場に『歪時廊』が近づいているのは確かだ。

 

理由なんて知らない。

本能がそう告げていた。

 

唯、この事実に頭がいっぱいだった。

 

心臓の拍動が耳元で聴こえる。

今まで忘れていたのではないかと思うほどに、それは大きな音を立てて血液を循環させた。

もしも俺がこの時、一体何が『歪時廊』を呼び寄せたのかを考えていれば、未来はがらりと変化したのかもしれない。

良いにせよ悪いにせよ、俺は『歪時廊』の歴史を知らなかったのだ。

 

噴き上がる水に、誰かの姿がちらついたような気がした。

『歪時廊』の存在に気を取られていたとは言え、さすがの俺もびくりと肩を跳ね上げ、噴水の向こう側に目を凝らした。

噴水の向こうには病院があって、その病院と噴水の間に誰かが立ち尽くしているのが見えた。

 

白いワンピースに点滴。

 

……病人なことには違いないだろうが。

 

 

 

(こんな状況で現れる奴が、果たして『正常な』世界の住人なのか……)

 

 

 

甚だ疑問だ。

しかし他に見当たるものがない。

折角近づいた『歪時廊』への手懸かりかもしれないのだ。

放っておくわけにもいくまい。

 

警戒しながら、ゆっくりと噴水に沿って広場を歩き始めた。

相手を確認して、思わず銃に掛けていた手を緩めた。

 

相手は少女だった。

歳のところ、俺より何歳か下だろうか。

 

近づくと、白いワンピースから覗くか細い腕や足に巻かれた包帯が痛々しかった。

点滴は右腕から無造作に伸びている。

何処から如何見ても、目の前の病院から抜け出してきた唯の病人のようだ。

現に彼女は裸足である。

 

俺は溜め息をついた。

 

 

 

「なぁ」

 

 

 

俺が声を掛けても、少女は反応しない。

試しにさらに近づいてみたが、少女は微動だにしなかった。

 

俺はまた言う。

 

 

 

「おまえ、其処の病院の奴か? それとも、麗夢(ナイトピア)の……住人だったりするか……??」

 

 

「……」

 

 

「『歪時廊』、知らないか? 探してるんだが」

 

 

「……」

 

 

 

まるでうんともすんとも言ってくれない。

人形に話し掛けているような有り様だ。

 

無視されているのか、聴こえていないのか。

 

俺はしばし眉を顰め、相手を観察していた。

 

少女の整った顔を眺めていると、彼女に俺の声が届いていないことに気がついた。

少女の瞳は曇った鏡のように虚ろで、ぼうっと噴水だけを見つめているのだ。

 

噴水以外のものなんて存在しないかのようだった。

 

少女の視線の先を目で追い、少女に尋ねた。

 

 

 

「噴水に、何かあるのか?」

 

 

「……」

 

 

 

少女はやっぱり何の反応も示さない。

唯、しばらく幽霊のようにぼうっと佇んだ後、ふらふらと噴水に向かって歩き出す。

からからと点滴が鳴った。

 

 

 

「っおい」

 

 

 

石畳に不安定な点滴の車輪が跳ねるのを見て、俺は慌てる。

少女の隣に追いついて倒れかけた点滴を支えてやると、少女は初めて俺を見上げた。

 

 

 

「……? ……」

 

 

 

よくわからないと言いたげにぼんやりと俺を見上げる瞳には、俺が映っていない。

果たして俺の存在をちゃんと知覚しているのか、俺には自信が持てなかった。

 

興味の対象が噴水から俺へと移行したのか、それともそもそも何の目的も持ち合わせてはいなかったのか、少女は噴水の存在を忘れたかのようにそのままの体勢で停止した。

こちらを見ていないことはわかっていたが、こんなにもじっくりと人に目を向けられるのは居心地が悪くて、おずおずと点滴から手を離した。

 

 

 

「おまえさ、『歪時廊』知らねえんだな?」

 

 

 

一応確認のため、声に出して言ってみた。

少女は表情もなく佇んでいる。

 

わかってはいたが答えはない。

 

俺はやれやれと首を振った。

唯の病人とわかれば、言うべき内容はひとつだ。

 

 

 

「こんな時間に病人が出歩くもんじゃない。わかるか? 駄目だろう、病院を抜け出したら」

 

 

「……」

 

 

「ちゃんと病院に戻っとけよな。俺はもう行くぜ。さっさとセピリアを探さなくちゃならねえんだから」

 

 

 

別れるつもりでそう言った時、初めて少女が明らかな反応を示した。

と言うか、何が引き金となったのか、少女の目の中の霧が取り払われ、彼女は俺の目をはっきりと凝視したのだ。

 

俺と少女の視線が絡んだ。

 

桜色の唇から、少女は微かに声を漏らす。

 

 

 

「……ぁ……」

 

 

 

そして。

 

 

それだけだった。

 

 

唐突にスイッチが切れたように、少女の長い睫毛が下りて、少女は音もなくふらついた。

元々弱い身なのか、彼女が自身の身体を支えるような力は皆無だった。

がくんと傾く少女に、俺は驚く。

 

 

 

「な……おい! しっかりしろ!」

 

 

 

崩れ落ちた相手を抱き止めようと伸ばした手に、冷たいものが絡みついた。

 

水だ。

 

理解の追いつかない頭ですぐ脇の噴水を見れば、まるで生き物のように水が逆巻いていた。

俺目掛けて幾つもの水の手が伸び、俺を石畳から掬い取る。

 

探しに探して、数十秒前まで心の底から求めていた……『歪時廊』だった。

 

俺の日頃のおこないが良かったから見つけられたのかもしれない、と呑気にそう思ったが、見つけてしまった今となっては全然有り難くない光景だった。

 

 

 

「くっ……」

 

 

 

浮き上がる身体が水に沈む一瞬、石畳に倒れた少女とその傍に佇む点滴の影が見えたような気がした。

 

 

確認する間もなく、俺は噴水の水の中に引きずり込まれた。