呼ぶ旋律(こえ)が聴こえたんだ

      唯ひとりを呼ぶ旋律

 

 

1.奇妙な舞台の上に立つ

 

 

何だよ、これ。

 

俺は呆然と立ち尽くす。

 

如何してこうなった?

一体何が起こったんだ?

 

誰か、俺の頭を一発ぶん殴ってこの悪夢から覚ましてくれ。

 

 

「何処だ、此処は?」

 

 

何ともベタな台詞が俺の口から飛び出した。

人とはわけのわからない状況に陥ると、こんな台詞しか吐けなくなるらしい。

今わかった。

 

改めて周りを見回すが、さしてこの状況を理解するだけのものが見当たるわけでもない。

むしろ頭痛が酷くなった。

 

何で空が薄桃色(ピンク)なんだよ!?

何で目の前を熊のぬいぐるみが浮遊してんだよ!?

 

 

「……一体、如何しちまったんだ……」

 

 

無意味な呟きを漏らし、何とか浅くなりそうな呼吸を正常な速さにとどめた。

 

如何してこうなった?

 

考えなくては。

何故、こうなったのか。

 

何故この俺、テオドア・デュ・ヴィンテージがこのようなトチ狂った世界を踏み締めているのかを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数分前、そう、たった十分にも満たない時間を遡れば、俺は確かに『霧の街(ミスト・タウン)』の大通りを歩いていたのだ。

 

『霧の街』……アイデンツ・リアクトの首都だ。

 

昔、俺はこの国始まって以来の大騒動を引き起こしてしまい、今は兵士という名のわんちゃん共と追いかけっこをしている……という、何ともスリリングな生活を送っている。

 

はた迷惑も良いとこだ。

減るもんじゃなし、俺の言い分くらい聞けよコラ。

 

……話が逸れたが、そんな生活をしていたら身が保たないので、俺は此処数年間、リアクトの外にいた。

 

 

ところが、だ。

最近、この国に戦争の気が漂ってきたのに気がついた。

 

おかしなことだと思う。

戦争を起こす……理由がないのだ。

 

それなのに、リアクト国の外交は悪化の一途を辿っている。

 

これは、おかしい。

 

 

 

「ま、そのお陰で追っ手を見掛けなくなったのも事実か」

 

 

 

俺は小さな声で呟いた。

 

戦争の気が漂ってくると同時に、そのわんちゃん共の足はぱったりと途絶え、俺はこれまでにないほど奇妙な平穏を手に入れていた。

追手が来ないのならもっと遠くへ逃げれば良いものを……。

 

黒い帽子を深く被り、読み終わった新聞をぽいと投げ捨てながら溜め息をついた。

頭ではわかっていても、興味には勝てなかった。

 結局、俺はこの街に戻ってきてしまったのだ。

 我ながら、少し呆れる。

 

 

そんな取り留めもないことを考えながら、オープンテラスの白い椅子から立ち上がり、歩き出した。

 

無論、単なる興味だけでこの街に戻ってきたのではない。

昔馴染みから手紙が届いたことも大きな原因だ。

二十四年の短い人生の中で、これほど異様な数週間は未だかつて過ごしたことがなかった。

 

大体、グレイが手紙なんか書く性格とは到底思えない(拝啓テオドア様とか、思わず手紙を破いてしまうところだった)。

内容は実に簡潔で、『霧の街に戻って、オレを訪ねてこい』というものだった。

 

長くなったが、これがわざわざお尋ね者の俺が街に戻った理由。

 

 

と、此処までは良い。

 

 

其処から何でぶっ飛んだんだよ。

俺は唯、単純にグレイの居る酒場へ向かっていただけだろうが。

数年前と同じ道を、数年前と同じく自分の黒いコートのポケットに手を突っ込んで。

急ぐでもなく、歩いていただけなのだ。

 

 

(グレイの奴、俺に雑用を押しつけるために呼んだんじゃねえだろうな)

 

 

グレイならやりかねない。

そう思いながら、帽子を目深に被り直した。

そんな理由なら、間髪入れずに帰ろう。

 

グレイはこの大通りを進み、噴水のある広場を裏路地に入ればすぐの、わりと小奇麗な酒場にいる。

というか、住んでいる。

 

通い慣れているので迷うことはない。

もう少しでその広場に着く、という時だった。

 

唐突に、俺の耳が何かの音を捉えた。

 

リン……という音。

 

何かが石畳に落ちて、弾む音。

 

ざわざわと流れていく人混みの中で、唯一、耳につく音だった。

誰かが財布から硬貨でも落としたのか、と何気なくそちらに目を遣った。

 

ちょうど馬車が数台、渡ろうとしていた俺の目の前を音を立てて横切るので、足を止めて行き過ぎるのを待っていたのだが。

 

そいつはキィンと金属音を響かせ、数回バウンドするとこちらに転がってきて、靴にぶつかり静止した。

 

眉を顰め、そいつを拾い上げた。

 

 

「……?」

 

 

歯車だった。

片手にちんまりと収まる、比較的小さいものだ。

 

こんなもの落とすか、普通?

 

騒めく人々の群れに目を向けた。

皆てんでバラバラな話をし、てんでバラバラな方向へ歩いていく。

何もおかしなことはない。

いつだってこの大通りは、人で溢れ返っているのだから。

 

再び自分の手に視線を戻すと、歯車はまるでくすくす笑いをするかのようにちらちらと太陽の光を反射した。

 

何処かの部品を、気づかずに落としてしまったのだろうか。

 

それとも先程通っていった、近くの魔術学校の制服を着た女子生徒達の辺鄙な落としものだろうか。

 

どちらにせよ、俺には関係のないものだ。

 

其処まで思考が行き着き、このガラクタを捨てるという行為に至る前に、俺はようやく周りの異変に気がついた。

我ながら、気づくのが遅過ぎたと思う。

 

 

全ての音が、消えていた。

 

 

不気味に静まり返る世界。

 

 

「っ……!? 何だ…!?」

 

 

素早く目を走らせると、音の死んだ街はまさに硝子細工と化そうとしていた。

先程まで煩いくらいに騒めいていた人々も、行き交う馬車も、街並みも、全てが静止し、透き通る。

硝子細工の人、馬、噴水の水でさえ空中で動き方を忘れてしまった雪のように停止していた。

そして、一拍遅れてくる目眩。

 

ぐにゃりと視界が歪んだ。

 

まるで立ち眩みだ。

 

とても立っていられない。

 

足の感覚を失い、身体が傾ぐ。

目の前に石畳が迫った。

 

駄目だ、倒れる……。

 

 

遠のく世界の中で、悲しいピアノの旋律を聞いたような気がした。