それから私は、発送のたびに手紙を書いた。

会社の様子、麻桐さんとの遣り取りや最近の出来事と、私の気持ちを少し添えて。

花の香を帯びたレターセットの枚数が少しずつ減っていくのを感じながら、書き続けた。

 

 

でも。

 

 

 

彼からの返信は、ひとつも来なかった。

 

 

 

「……」

 

 

 

ぼんやりと手元の手紙を眺め、溜め息をつく。

ペンを手に取ってからもう十分以上経つのに、手紙は真っ白のままだった。

 

あれほどたくさん書きたいことがあったはずなのに、いざ書こうとすると、どれもこれも何故だか泡のように頭の中で弾けて消えてしまう。

 

まとまらない思考のまま、無理矢理ペンを紙の上に滑らせた。

 

 

 

『そちらの様子は如何ですか。イーヴィルさんのお仕事が落ち着いていることを願います。きっと、大変なのでしょうね……』

 

 

 

書いていたペンが停止する。

 

本当に、そうなのだろうか。

手紙を読む暇もないほどに、相手は忙しいのだろうか。

 

何度となく窺った麻桐さんは唯、いつも通りの表情で、相手が小包と手紙を受け取ったと私に教えてくれるだけだった。

 

 

 

『もうすぐ二週間が経ちますね。三月も半ばで、こちらは暖かい日が続いています。』

 

 

 

ぱたりと、手紙の上に何かが落ちた。

 

 

 

「ああ、……大変」

 

 

 

慌てて紙に染み込もうとする水滴を拭うのだが、水気を吸ったそれがインクを滲ませた。

 

くしゃりと丸めたそれを屑籠に放り込んで、新しい一枚を取り出す。

ふわりと漂う、優しい花の香り。

 

唇を引き結び、ペンを動かす。

 

 

 

『桃の花が咲いていて、綺麗で』

 

 

 

ぱたり、ぱたりと、降ってくる雨がペンの進む先を妨害する。

 

 

 

『イーヴィルさんにも、見せ』

 

 

 

それ以上は無理だった。

 

拭っても拭っても、頬を伝い落ちるそれが手紙を濡らしていく。

如何しても、止めることができなかった。

 

ペンを持つ手が、震える。

 

 

 

『あなたがいなくて、寂しいです。』

 

 

 

綴った文字が水分を吸って歪んだ紙面に黒い跡をつける。

 

 

 

『お願いだから』

 

 

 

ペン先が脆くなった紙の表面を小さく破くのを見る。

 

 

 

『早く、帰ってきて』

 

 

 

ペンが止まった。

 

 

 

「駄目、……こんな文章……もっと、ちゃんと書かなくちゃ……」

 

 

 

呟き、もはや取り返しのつかないほど汚れた手紙をくしゃくしゃと丸めて屑籠に放り込んだ。

 

荒々しく探った先のレターセットは、空っぽだった。

先程のものが最後の一枚だったのかと、ぼんやりと屑籠を見遣れば、書き間違えた何枚もの残骸が悲しげにこちらを見上げていた。

 

そっとペンを置き、椅子から立ち上がる。

そのままふらふらと歩いてベッドに突っ伏すともう、何も書く気が起こらなくなった。

 

 

 

(馬鹿みたい……)

 

 

 

離れていたとしても、少しでも何か関わりが欲しくて一方的に手紙を送る自分が、滑稽に思えた。

目を閉じると、受け取った手紙を彼がそのまま屑籠に放り込むイメージが浮かぶ。

 

相手に読まれることもない手紙を書き続けるなんて……。

 

声をあげることもなく静かに泣いた後、私はそのまま眠ってしまった。

 

目が覚めると、西日が外を赤く染めていた。

時計を見ればもう発送の時間で、私は小包だけを抱え、慌てて一階を目指した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから私は、手紙を書かなくなった。

 

レターセットが尽きてしまったことを理由に、本部と支部の遣り取りを真面目にこなしていった。

例えレターセットがあったとして、今の自分が手紙を書けるかどうか怪しい。

 

いつも通りの時間、小包を担当者に手渡して、そのまま社長室へ続く階段をゆっくりゆっくりのぼる。

 

ふと見遣る窓の外は、春の雨に烟っていた。

比較的細かい雨粒は、遠い灰色の街並みをぼんやりと包み、その輪郭を鈍らせる。

 

聞こえる静かな雨音に惹かれ、足を止めた。

 

誘われるようにバルコニーへ歩き、硝子戸をそっと開くと、雨の匂いがした。

目を閉じ、社内の空気とは全く別の、湿ったそれを深く吸い込んだ。

 

 

 

「……?」

 

 

 

雨に紛れて嗅ぎ慣れた香が鼻腔を突き、眉を顰めて目を開いた。

 

微かなブッドレアの香り。

蝶の訪れを告げる優しい花の香り。

 

目を瞬き、雨音で飽和したバルコニーに足を踏み出す。

薄い水の膜を纏った床が、ぴしゃんと音を立てた。

この天気の時にしか現れない鏡面が、反転した世界を、私を、映している。

 

見回してみても、バルコニーに花の姿はない。

そもそも、ブッドレアの開花時期は夏から晩秋だ、春には咲かない。

 

 

それなのに、何故。

 

 

 

 

「こんなところにいやがった」

 

 

 

 

不意に、背後からそんな声がした。

 

 

 

「!?」

 

 

 

比較的近距離のそれに驚き、振り返ろうとしたところで、背後から伸びた大きな両手が私を捕まえた。

 

 

 

「い……」

 

 

 

一瞬身を強張らせ、……しかし相手が誰であるか思い至り、信じられない思いで呟いた。

 

 

 

「イーヴィル 、さん……?」

 

 

 

振り返らなくてもわかる。

 

身体を包み込む大きな手の感触と、雨と花の香に紛れて漂う微かな煙草の匂い。

背中から伝う拍動。

 

聞き慣れた低い声が、鼓膜を震わせる。

 

 

 

「何処にもいねぇから、探しちまっただろうが。……心配させんなよ、全く」

 

 

 

溜め息混じりにそんなことを宣う背後の相手に、素っ頓狂な声で問うた。

 

 

 

「い、いつ戻られたんですか!?」

 

 

「ついさっきだ。馬鹿みたいに引き留めてくる支部の連中を黙らすの、大変だったんだからな」

 

 

 

包み込む腕にぎゅっと力を込めてぼやいた後、相手はそっと手を緩め、解放してくれた。

慌てて振り返ると、予想に反することなく漆黒のスーツを身に纏い気怠げにこちらを見下ろすいつもの男の人の姿が目に留まった。

 

懐かしい姿に、思わず息を詰まらせ、おずおずと尋ねた。

 

 

 

「あのっ、お仕事……とても、お忙しかったのでは」

 

 

「全部片付けてきた。早く本社に戻りたかったからな。……ていうかおまえ、何で途中から手紙送るのやめちまったんだよ。お陰で、おまえに何かあったと思ったじゃねえか」

 

 

「え……手紙、って」

 

 

 

何を言われているのかわからずぽかんとすると、イーヴィルさんは呆れたように繰り返した。

 

 

 

「だから、手紙! 物資と一緒に、俺宛に寄越してきただろうが!」

 

 

 

そう言いながら、彼は徐ろに紙の束を取り出した。

封筒の方は捨ててしまったのだろうか、きちんと日付順に重ねた綺麗なレターセットが括られていた。

 

ふわりと香る、あの。

 

ブッドレアの香り。

 

 

 

「届くたび、全部読んでた」

 

 

 

がしがしと髪をかき上げながらぶっきらぼうにそう告げる彼は、ふいと顔を逸らす。

何処となく気恥ずかしげな、しかし涙腺を壊すには充分過ぎる優しい言葉に、ぶわっと目の前がぼやけた。

 

俄かに、相手の視線が勢い良くこちらへ向くのを感じる。

 

 

 

「なッ……おい!? 何故其処で泣く!?」

 

 

 

ぎくりと肩を跳ね、困惑したように問う相手に、吃逆をあげながら応じた。

 

 

 

「す、捨てられてたかと思ってましたあ〜!」

 

 

「はァ!? 何で捨てなきゃならねぇんだよ、俺宛だろ!?」

 

 

「それはっ、そうですけどっ! だ、だって、返事が全然、来ないから……」

 

 

 

弱々しく言いながら乱暴に目を擦る私の手を、相手が捕らえた。

イーヴィルさんは私の手を下ろさせると、ハンカチを取り出して困り顔のまま私の顔に当てがった。

 

 

 

「……阿呆。わざわざ寄越してきた手紙を捨てる奴が何処にいる。おまえから見て、俺はそんなに薄情者か」

 

 

 

今日の天気と全く同じな有り様である私は、しばらく相手にされるがまま、大人しく目尻を拭ってもらっていた。

相手の言葉にふるふると首を横に振ると、彼はばつの悪そうに言った。

 

 

 

「返事を書くつもりだった。が、それよりも、早く仕事を終わらせて本部に戻る方が良いと思って、結局……嗚呼もう、悪かったよ。そんなに俺のことを気にしてるとは思わなかったんだ」

 

 

 

ぱちぱちと目を瞬き、背の高い相手を見上げると、徐々に気持ちが落ち着いてきた。

ようやく、彼が此処にいる実感が湧いた。

 

 

 

「返事がないから、何かあったのかととても心配していました。……本当に良かったです」

 

 

 

そう告げると、相手は揶揄うように言った。

 

 

 

「……何だよ、俺がいなくてそんなに寂しかったのか?」

 

 

「……はい」

 

 

 

こっくりと頷くと、相手は目を丸くし絶句した。

 

驚愕したように停止する大きな手にそっと触れ、もごもごと呟く。

 

 

 

「本当は、あなたがいなくて、寂しいって、早く帰ってきてほしいって、お手紙に書きたかったんですけれど……その」

 

 

 

恥ずかしかったので、と白状すると何故だろう、彼は目元を覆って溜め息をつき、しばし沈黙した。

 

 

 

「あの……?」

 

 

 

不思議に思い、背の高い相手を見上げると、イーヴィルさんは目元から手を退かし、もごもごと言った。

 

 

 

「おまえな……そういうところだぞ」

 

 

「へ?」

 

 

 

はて、そういうところとは、如何いうところだろう。

 

相手の言葉がわからずぽかんとすると、イーヴィルさんはそっと屈み込んでこちらに目線を合わせた。

 

 

 

「はぁ……まあ、いい。手を出せ」

 

 

「手……ですか?」

 

 

「そう」

 

 

 

不可思議な指示に困惑しつつ両の手の平を相手に差し出すと、彼は気を取り直したように、その上に何かを置いた。

 

微かな重みに目を瞬くと、それが可愛らしい包装の小箱であることがわかった。

綺麗に揃えられたリボンの向こうで、色とりどりの洋菓子を見る。

 

 

 

「え!? あ、あの、これ……マカロン、ですか?」

 

 

 

味ごとに異なる鮮やかな色のマカロン達が、ショーウィンドウのような箱にきちんと整列していた。

驚く私の頭をぽんと撫でて、彼はしれっと答えをくれた。

 

 

 

「好きだろ、それ。当日に渡したかったから、仕事終わらせてさっさと帰ってきちまった」

 

 

 

凝視していたそれから視線を上げて相手を見、ようやく思い至った。

 

 

 

「あ、今日、ホワイトデー……」

 

 

 

彼は肩を竦めた。

 

 

 

「ちゃんと良い子に待っていたご褒美だ。……手紙の件はそれで許せ」

 

 

 

最後の方はまるで叱られる子供のようなばつの悪い顔で宣う彼に、ぱあっと心が晴れ渡った。

 

 

 

「はいっ!」

 

 

 

予期せぬプレゼントをもらってしまったこともそうだが、ちゃんと手紙を読んでくれていたこと、私を覚えていてくれた事実が堪らなく嬉しかった。

 

甘い洋菓子はまるで特別な宝物みたいで、思わずぎゅっと抱き締めた。

 

 

 

「ありがとうございます……凄く、嬉しい」

 

 

 

そんな様子を眺める男の人は、こちらに手を伸ばし言った。

 

 

 

「本当、手のかかる奴」

 

 

 

頬を撫でる手にきょとんと上目で窺えば、彼は涙の跡を拭い取りながら言った。

 

 

 

「そんな不安がらなくたって、ちゃんと此処に戻ってくるッつうの。贈った菓子で意味くらいわかりそうなものだがな」

 

 

 

お菓子の意味?

 

すっと手元の可愛らしいマカロンに目を落とすのだが、特にメッセージカードが添えられているわけでもなく。

 

 

 

「え、イーヴィルさん、如何いう意味ですか? このマカロンが、如何かしたんですか?」

 

 

 

私の表情が可笑しかったのか、彼はふんと鼻を鳴らし、満足げに言った。

 

 

 

「絶対教えてやらない」

 

 

 

 

 

 

 

甘党少女と秘密のマカロン

 

(ぇえ!? 如何してですかあ!?)

(気になるなら調べてみたらどうだ? 簡単にわかったらつまらねぇだろうが)